雨が降っていた。

細い、糸のような雨。

けれども雁国の港は賑やかで、人が絶える様子はない。

また、船が港に入ってくる。

ここは雁国景州白郡首陽郷烏号。

 

けれどその人混みの中に。

求める人の、姿はない。

 


 

*

*

*

 

あの日も雨が降っていた。

 

それは、初めて彼女と会った夜だった。

しばらく晴れ間が続いていたせいで、余計にその夜は蕭蕭として物悲しかった。

楽俊は瞑目する。

今、それを思い起こすとゾッとする。

あの日、あの場所に行った理由を。

すべては、雨のせいだった。

けれど、あの日に雨は必要だったのだ。

彼女に会う為に。

あの国から出る為に。

そうして。

自分が、生き続ける為に。

半獣で在り続けることに倦んでいた。

緩慢に、ただ死に繋がれていくことに疲れていた。

生きたかった。生きていることを強く感じたかった。

働くことも出来ない。何かを成し、何かを残すことも出来ない。

ただ、家の書物を読み漁り、それを写し、世界の片隅で息を潜めて鬱々と過ごす。

そんな生に別れを告げたいと思っていた。

 

あの日の夜半、一人きりの家の中は寂寥として物音一つしなかった。

雨の音。自分の吐息。

眠れず寝台の上で布団にくるまっていると、山から遠く、赤子の泣くような声を聞いた。

疑問に思ったのは、一瞬。

背筋を戦慄が走った。

-----山から聞こえる赤子の声は、妖魔のもの。

楽俊が生まれるずっと前から王はいた。

半獣を嫌う王ではあるけれど、その治世は長い。

楽俊も妖魔の話こそ聞いてはいるものの、実際の存在自体は身近なものではなかった。

家を襲うのだろうか、と思った。里が襲われることもあると聞く。

人に知らせなければ。と。

けれど里に知らせに行って、人が信じてくれるだろうか、と。

そこまで思って、体が強張った。

内腑が冷えた。

自分の心身は、ここまで荒んでいたのだろうか。

氷の塊を飲み込んだように、胸の奥が冷たく固く感じた。

今まで半獣であることを卑下したりはしなかった。

王が半獣を嫌うのは仕方がない。

人が自分を信じる、信じないも人の勝手だと、そう思っていた。

けれど、今まで自分に言い聞かせていた言葉が霧消する。

いつの間にそうなっていたのだろう。

知らず、そうなっていたことに恐怖した。

自分は、半獣であることに臆病になっていた。

人の自分を蔑む瞳が怖かった。

半獣だから。

信用出来ない。

刃物のように心を刺し貫いていく言葉の破片。

なりたくてなったわけじゃない。

生まれたくて生まれたわけじゃない。

そう無言で叫ぶたびに、心のなかで何かが壊れていった。

殆ど発作のように、楽俊は寝台から降りた。

立ち上がって、深く息を吐く。

山に行こうと思った。

妖魔がいるならいるで里の人々に教えねばなるまい。

信じて貰う為にも、どんな妖魔がいるのか言えねばなるまい。

扉の重い音が耳に不快だった。

雨の闇夜を一人歩いた。

そう。あれは。

己の死を望んだ日でもあったのだ……。

 

*

*

*

 

雨の森で見たものは、妖魔の死骸の山だった。

誰かが剣か何かで戦ったらしいそれらを、驚きと恐怖とがないまぜになった視線で見つめながら

楽俊はその場を離れた。

早足で戻りながら。

多すぎる。

しかしすぐさま、それを思った。

清涼な水に、汚水をぽとりと一滴落としたように広がる不安。

どうして。

こんな人里にどうしてこれほどの妖魔の群れが?

考えたくなかった。

しかし、どこかで喜びの声をあげている自分も見つけてしまっていた。

半獣を嫌う主上。

土地もくれず、職もくれず、税金を高くして差別する主上。

それ以上を言うな。

止める声。

けれど嬉しいだろう?

笑う声。

その、どちらもが自分自身。

声を振り切るように、駆け足になった。

逃げるように走ったところで、ふと、森から浮き出る色を見つけた。

赤。

妖魔の、生き残り?

おずおずと様子を窺うと、向こうもそれに気付いたらしい。

殺気に満ちた空気で、こちらを探る気配があった。

人。

赤は血の色だった。倒れている。まだ若い。傍に剣がある。

ならば、この者が妖魔と戦ったのだろうか。

その人物は、しかし楽俊を見た瞬間に珍妙なものでも見た表情になった。

楽俊は苦笑した。

半獣はやはり珍しいのだろう。

相手は酷い怪我をしていた。

死んでいないのが不思議なくらいだった。

死にに来た自分が、死にそうな人間を助けるのか。

あんまりな結果に楽俊は困惑もし、可笑しくもなった。

怯えさせることのないよう、出来るだけそっと近付く。

その肩に手を伸ばす。

「だいじょうぶか?」

少年とも少女ともつかないその人物は、激しく瞬いた。

半獣を見たことがないのだな、と思った。

「どうした?動けないのか?」

相手はじぃっと顔を見つめてくる。何かを決意したのだろう。

それから、小さくうなずいた。

少しだけ警戒をといたようだった。悪い人間ではないらしい。

「そら。がんばれ。すぐそこにおいらの家があるから」

手を伸ばすと、ああ、と。雨と泥と血に汚れた顔から小さな溜息が洩れた。

「ん?」

かすかに指の先が動く。楽俊は手をさらに伸ばす。

触れた指先は冷たくて、ひどく儚いものに思えた。

 

彼女を家に連れて戻ってからの三日は忙しかった。

ネズミの姿だと彼女を抱えるのも大変で、人間の姿に戻って看病した。

着替えをさせて少女だと気付いてからはさらに困ってしまった。

母を呼んでこようかとも思ったが、彼女を拾って次の朝。

役所から連絡が来た。

役所の人間は楽俊が半獣だと知っている。

人間の姿で出て行くと、その男は頬を歪めるようにして笑った。

楽俊はそれを綺麗に無視して用件を促す。

不快さにも、もう慣れた。

どうやっても理解してもらえない人間には、それを諦めるしかないのだ。

男の話によると、淳州符楊郡廬江郷槇県配浪のあたりで大きな蝕があったらしい。

そこに海客が打ち上げられたのだ、という。

年の頃は十六、七の女で、紅い髪をしている。

なかなか立派な剣を持っているので注意するように。

その剣に鞘はなく、いつも抜き身で持ち歩いていると思われる。

見つけて申し出れば多額の報奨金を与える、とも。

男の言葉を聞きながら、どおりで半獣を知らなかった訳だ、と思った。

「普通」と違うからと差別すること。

「普通」と異なるものを怖れること。

本人の責任でもないのに、その事自体を罪として生死を決めること。

もういい、と思った。

彼女もまた自分と同じ。逃がしてやりたいと。そう、思った。

思った瞬間、湧き上がった歓喜の気持ちは、きっと誰にも分からないだろう。

生きている、と思った。

そうだ。このために自分は半獣として生まれたのかもしれない。

何かを成し、何かを残す。

生きている意味を必死に求めているにも関わらず、他人に奪われる憤り。

息を殺してただその日を過ごす日常。

それらすべてが火花をあげて飛び散った。

今までの苦労。今までの知識。

心の中に蓄えられた無形の宝玉を、彼女の上に慈雨のごとくに降り注いでやろうと思った。

その気持ちはまるで恍惚とするにも似て。

役立たずの自分の、ちっぽけな王への反逆。

---------彼女は、海客だったのだ。

 

*

*

*

 

彼女が目を覚ました時、楽俊は人の姿だった。

けれど、物音に気付いてそっと中を覗いた時、見つけたのは彼女が剣を布団の中に

持って入る姿だった。

仕方がないだろうと思った。

知らない土地に来て、追い掛け回され、生死の境を彷徨った。

そんな目に遭えば誰だって人間不信に陥るだろう。

楽俊はネズミの姿に戻った。

彼女は警戒しながらも、少しずつ話をしてくれた。

母が戻ると、彼女は母を恐れる風だった。

けれども、自分にはまだ心を開いてくれるようだった。

半獣の自分。蔑まれ、疎んじられていた自分。

それなのに、彼女は半獣の自分にだけ心を開いてくれるのだ。

ひどく嬉しかった。どうしても助けてやりたいと思った。

 

------自分自身のためにも。

 

*

*

*

 

午寮で蠱雕に襲われた翌日、楽俊は傷の手当てもそこそこに旅立った。

彼女は逃げたのだろう。海客がつかまったとは聞かない。

怪我人にも死体の中にも彼女はいなかった。きっと、無事なのだろう。

急げば間に合うかもしれない。楽俊は足を速める。

少しばかり落胆したのは事実だ。

旅の間、彼女は始終警戒していたし、殆ど笑うこともなかった。

けれども、彼女には幸せになって欲しかった。

雁国にさえつけば、彼女は少なくとも身の安全が保証される。

帰ろうかとも思った。故郷に残した母の姿が脳裏を横切った。

けれども、成人すれば子は家を離れるのが常なのだ。

これでいい、と思った。

たとえこの身が失われても。

もとよりあの日、死を覚悟した自分ではないか。

背中の痛みよりも彼女を案じる気持ちの方が心を抉る。

金も持っていない。

船の乗り方も知らない。

何も知らない土地で、彼女はまた必要のない苦労を強いられる。

阿岸でしばらく待っていた。

けれども、彼女の姿はなかった。

気が急いて雁国に渡った。

賑やかな町。美しく整備された土地。

けれども彼女はいなかった。

賑やかな雑踏は、楽俊の耳に虚ろに響いて通り過ぎていった。

 

*

*

*

 


 

天空は透けるように高く、蒼く美しかった。

陽光は明るく、そこは喧騒の中。

子供たちが走り回り、よく日に焼けた男たちが忙しそうに働く。

浮き足立つようなリズム。

烏号の街。

巧国から着いた船がある。

人々がゆっくりと降りてくる。

雑踏を見渡す人がいる。

今までよりもずっと生気に満ちた顔をした少女。

すぐに分かった。

目が素通り出来ずに、一箇所に止まる。

無彩色の中にある、極彩色の存在。

歓喜に打ち震える。

無事だった。

また巡り会えた。

いつしかひとつの感情に結びついた、その姿。

彼女は自分の生の実感。

もうすぐ旅は終るだろう。

しかし、ここでなら職を持てる。

彼女さえいれば、何かを成し、何かを残すことも出来るだろう。

 

かつて自分に言い聞かせ、いつしか霧消してしまった言葉を、彼女に沢山贈りたい。

それらが虚ろでなかったことを、彼女なら証明してくれるだろうから。

 

楽俊はそっと声を掛ける。

埠頭に降り立った、少女の背中に。

 

 

 

 

 

「陽子?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

2001.8.16.


『うめ御殿』のうめ様に献上いたします、楽俊視点の巧国からの旅、です。
今改めて思うことでもないですが、『雨』は十二国記で初めて書いたSSでした。
そして
これを書きあげた瞬間から、わたしの楽俊の方向性は決定してしまいました。(^^;
当初は一般的に癒し系と言われている楽俊を、こんなにダークにしても良いのだろうかと
思っておりましたが、今ではすっかりこの楽俊が楽至でのベース設定となっていることを思えば、
「ま、いっか・・・・・」と虚ろに笑いつつ、開き直ってしまっている次第であります。(苦笑)

漫画化して頂いた時には、本当に色々な思いが巡って、数行のコメントに収めることなんて
出来ないのですが、とにかく皐妃さんのセンスと表現力に感嘆し、感動し、尊敬しました。
逆光の中に立つ陽子に、楽俊と同じく目を奪われた瞬間のことは今でも鮮やかに覚えています。
皐妃さんからは「氷魚さん・・・台詞削りすぎ。(がくがくぶるぶる)」と言われた『雨』ですが。(笑)
わたしは皐妃さんの漫画なら、『雨』は完全なサイレントでもいいとさえ思っていますよ、ええ。(にこり)



 

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