「泰麒、今いいだろうか?」
陽子が声を掛けると、臥牀の上で人が動く気配がした。
「はい、大丈夫です」
穏やかな柔らかい声だった。延麒から聞いた泰麒のイメージからもっと稚い声を想像していた楽俊は、ちょっと戸惑う。
「では、失礼する」
陽子に促されて楽俊は足を踏み入れた。臥牀に黒い短い髪の少年がいて、楽俊は思わずまじまじと見つめてしまった。
麒麟の髪は普通は黄金色だ。泰麒が黒麒だということは聞いて知っていたけれど、実際見るとやはり違和感を感じる。
「こんにちは」
ちょっと首を傾げて微笑んだ泰麒に、楽俊は慌てて視線を外して跪いた。
「初めてお目にかかります。張楽俊と申します」
「初めまして。高里です」
微笑んで、泰麒は気安く返答した。麒麟というと延麒や景麒しか会っていないから、その差に余計に奇妙な気分になる。
陽子がちょっと笑って、楽俊を立たせた。
「泰麒、楽俊は私の命の恩人なんだ。私よりずっと国政について詳しいから色々と世話をしてもらってて。
泰麒にも、楽俊の方が私より力になると思うから紹介したかったんだ」
いきなりそんな風に言われて、楽俊は狼狽した。
「………よ、陽子。おいら、そんな偉いもんじゃ……」
けれど泰麒も静かに笑って、頭を下げる。
「それは、ありがとうございます。よろしく、楽俊殿」
楽俊は照れて赤くなった。
昨日、いきなり班渠が来たのは宵を過ぎたころだった。
どうしても楽俊に会いたいから来て欲しいという陽子の伝言に、慌てて来たら泰麒に会ってほしいのだ、と言う。
泰麒に会えるというのは名誉なことだし、力になることに否やのあろうはずもないが、このようにあんまり持ち上げられてはどぎまぎしてしまう。
「いえ、あの、大した事は出来ないと思いますが……」
ようやくそれだけを言うと、陽子はにっこり笑って楽俊に頷いてみせた。
「とにかく、どうぞお座りになって下さい」
泰麒に勧められて二人は泰麒の枕元の椅子に腰掛けた。
「起きていてつらくないの?」
陽子が問うと、
「はい、横になっているだけというのも意外にしんどいものですね」
泰麒は笑みを含ませて応じた。
「そうだね。退屈でしょう?」
「いえ。延台輔があちらの雑誌を持って来てくれたので……それなりには」
苦笑まじりに泰麒は傍にあった卓子の上から書物を差し出す。
途端、それを見た陽子はけらけらと笑い出した。
楽俊には書名の字が読めなかったのだが、表紙は色が綺麗に塗られた女性が描いてあり、とても高価そうな本だ。
「なんだ? 面白い本なのか?」
楽俊が聞くと、陽子は笑いながら首を横に振った。
「いや、本自体は別にそうじゃないんだけれど……」
陽子は苦しそうに胸を抑える。楽俊はちょっとむっとした。勿論、顔にも態度にも出さない程度にだが。
「この本を僕にくれる、っていう点で景王は笑ってるんですよ」
泰麒が言い添え、楽俊は首を傾げた。
「この本は泰台輔にはそぐわないんですか?」
「そぐわないも何も!!」
陽子は目の端に涙すら浮かべて楽俊を見る。
「この本、ぜ●しぃと言って、あちらでは結婚したい人のための雑誌なんだ」
「結婚………」
楽俊は一瞬思考停止に陥った。
麒麟が婚姻するなんて、聞いたこともない。麒麟の中では、王が唯一の存在だからだ。思考も意思もない。そういう、生き物なのである。
「六太くん、きっと雑誌のことは知らなかったんだな…」
ぱらぱらとページをめくりながら陽子は可笑しそうに続ける。楽俊はそんな陽子を見遣って、ちょっと複雑な気持ちなった。
麒麟もそうならば、王もまた婚姻の出来ない存在なのである。
「こういうのは、私はもう無理だな」
楽俊の気持ちを知ってか知らずか、陽子はそんな呟きを漏らす。
「こういうのって?」
優しい声で泰麒が訊いた。
「うぇでぃんぐどれす。一応、あちらでは女の子の憧れのどれすなんだ」
後半は楽俊に向けてのもので、開いて見せた頁には白い紗を重ねたような見事な衣装を身に着けた女性の絵があった。
「あちらでは、婚姻の時にはこんな衣装を着るのか」
陽子から本を受け取って、楽俊は感嘆する。
「延王に婚姻の時、女性は白無垢だってお聞きしたけど、これのことか」
「いや、白無垢とは違う。これは、うーんと……あちらの世界の、西洋の結婚衣裳だ」
「西洋? 延王や延台輔は金屏風の前で白無垢を着て、たかさごの〜って歌って、お祝いをするって言ってたぞ?」
「いや、あの、あのね。楽俊………」
陽子も泰麒も、堪えきれない様子で笑い出した。
笑ってはいけない、という感じで笑うから、楽俊は余計にむくれる。
「今の蓬莱は、延王が蓬莱にいらっしゃった頃から五百年経ってる。婚姻の形態も随分違うんだ」
「延王のおっしゃるような結婚式もあるんですけど、今はこういうのが主流なんです」
二人に丁寧に説明されながら、楽俊はなんだか嫌な気持ちになる。
陽子と泰麒が同じ目線でいるから、仲間はずれみたいに感じるから、面白くないのだ。
陽子がまたそれに気付いてくれないから、苛立たしいのだ。
そしてそんな自分が良く分かるから、なおさら嫌な気持ちになる。
「そうなのか」
だからことさらそういう気持ちを封じ込めて、顔にも態度にも出さないように楽俊は返事をした。
「前に楽俊が話してくれた玉と果物の贈り合いみたいなのもあるんだよ。指輪をお互いに嵌めて、結婚したことの証にするんだ」
「そちらでは玉佩ではなくて、指輪なんだな」
「まぁ、お互いを束縛するようなものでもあるからつけないという人もいるけどね」
陽子は楽俊に向かって軽く微笑んだ。
「要は形よりも、気持ちの問題だろう? 私は、気持ちが繋がっていればそれでいい」
楽俊は、その言葉を深く心に刻み込む。
外見も身分も気にせず、友達だと言ってくれた陽子。その気持ちに偽りはなく、これからもきっとそうなのだろう。
形式的にはもう、彼女を独占なんて出来ないけれど。
ただ、この言葉だけは独占していよう……。
「雑誌の事、私から六太くんにそれとなく言っておくよ。何かりくえすとがあれば伝えるけど?」
「いえ」
泰麒は笑った。
「それより、こちらの読み書きが出来るようにならないと。こちらの本でいいのがあれば教えて頂けますか?」
陽子と泰麒の視線を受けて、楽俊は頷いた。
「じゃあ、今度何か持って来ます」
「ありがとうございます」
泰麒はまた頭を下げた。
気安いというか、腰の低い台輔だなぁ、と思う。
「じゃあ、またお邪魔する。あんまり長居をしていると泰麒の体にも障るしね」
「気を遣わせてしまって……」
泰麒がすまなさそうに言うと、陽子は笑って手を軽く振った。
立ち上がり、楽俊と陽子が部屋を立ち去ろうとした時、
「あの、楽俊殿」
泰麒が楽俊をとどめた。
「?」
楽俊は振り返る。陽子が気を利かせて、では私は先に、と部屋を出て行く。
楽俊は泰麒の臥牀の傍に戻った。何か?と口を開こうとした楽俊より先に、
「ごめんなさい。景王にお世話になりっぱなしで」
泰麒に頭を下げて謝られ、楽俊はぽかんと目の前にいる黒麒を凝視した。
「あ、あの、泰台輔。おいら、なんで謝られるのか……」
「……勘違いでしたか?
延王や延台輔と蓬莱の結婚式の話をしたのは、そのせいだと僕は思ったんですが」
今度こそ、楽俊は絶句した。
顔に血が上って、真っ赤になっているのが自分でも分かった。
「僕、もう少し体の調子が良くなったら戴に戻ろうと思っています。慶でこれ以上お世話になるわけにはいきませんから」
微笑まれて、ようやく楽俊は理解した。
延麒は話していなかったか。
蓬山では女官のすべてから可愛がられ、戴にあってはあらゆる官吏に愛され、あの景麒すらも泰麒には心を開いたのだという………。
負けた。と、思った。
この黒麒には勝てない。
楽俊は生まれて初めての敗北を味わった。
それは巧の里でも、雁の学校でも、慶ではあの景麒にも感じた事の無かった感情だった。
衝撃のあまり上の空で辞去しながら、楽俊は泰麒の別名をふと思い出す。
そう。
人は彼のことをこう呼んでいたのではなかったか。
魔性の子。と……………。
了.
2001.2.7.
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