浩瀚が春官の一人から、そう言えば…などと話を聞かされたのは、春も終わりに差し掛かろうかという

朝だった。

「……楽俊殿?」

浩瀚の理知的な眉がかすかに上がる。

楽俊。

その人名は、この国の王の登極に深く関係したもので、国府の者には有名な名前だった。

王が巧国に流されて彷徨い、行き倒れになった時に助けたねずみの半獣…。

浩瀚自身、何度か会って話したこともある。切れ者として称えられる冢宰の彼でも驚くほどの博識で、

しかも人品卑しからぬ青年だった。現在は雁国の大学に行っており、将来は官吏になりたいのだと

話していた。浩瀚は心から、きっとなれるだろう、と励ましたものだ。

基本的に似た者同士なのかもしれないとも思うのだが。

……王に伝えて差し上げるべきだろう。

浩瀚はふむ、と頷き、教えてくれた春官に礼を言った。

多分、否。絶対に、主上はお喜びになると微笑みながら。

 

「楽俊が慶に来てる!? 本当に? 私は聞いていないぞ?」

案の定、陽子は何も知らされていなかった様子で、浩瀚の話にひどく驚いた。

「本当です。慶の大学の図書府に閲覧を申し込んでいたんです」

浩瀚は立ち上がったままの陽子に落ち着くようにと促し、穏やかに笑った。

「半獣の規制が撤廃されて、閲覧希望者の欄に半獣と記さなければならなかった項目が

削られたでしょう?それで、誰も気付かなかったんですね。名前も張清とありましたから」

「何でわざわざ……。言ってくれれば良かったのに」

陽子は呆然と座りなおす。

「楽俊殿らしい気遣いです。彼は課題論文を書くために資料を写し取っているらしいんですが。

他の生徒の手前もあるし、優遇されるのが申し訳ないんでしょう」

浩瀚をはじめ、その話をしてくれた春官も他の者も、そういう潔癖さはとても気持ちのいいものだと

思っている。

ただ、陽子としては複雑なのだろう。

「でも…せっかく慶に来てるのに内緒にしてるなんて…」

と、仏頂面だ。

「………それで、いつから慶にいるんだ?」

ちょっと膨れて浩瀚を見上げる。

「図書府には今日訪れたみたいですが。前々から書簡で申し込んでいたんです。こっちはただの学生と

思ってますし、正規の手順を踏んでもらってますから。その日付から推測するに、慶に来たのは

二日前からでしょう」

「二日!!」

陽子は声をあげる。いつもは行き来に時間を取られてゆっくり会えても半日かそこら。

それを、二日も!!

陽子は深く俯く。しばしの沈黙。こういう時、浩瀚は次に出る台詞に大体の予想がつくようになっている。

「……………なぁ、浩瀚……」

言いかけた陽子を、浩瀚の手が制した。

「街に降りるのは駄目ですよ」

「………っ!! 一日でいいからッ!」

「駄目です。今は朝議がごたついていますから。主上がいなくなると困ります」

朝議……と肩をしょんぼりと落した陽子に、浩瀚はもう一度微笑みかける。

朝議を放ってまでなんとかしたいと言わない辺りが、この生真面目な王の限界だろう。

陽子は、王としての責任をしっかりと受け止めている。まだ、十七歳の娘。

普通の娘なら恋でもなんでも自由であろうに。

「そこで、提案があるんですが」

「…………?」

浩瀚を見上げる翠の瞳は潤んでいて、頭を撫でてやりたい衝動に駆られた。

勿論、そんなことは出来ないけれど。

「楽俊殿も、主上にはお会いしたいでしょう。でも、優遇はされたくないでしょうからね。

学業の方は関知せず、さしあたって、部屋を貸すというのはどうでしょうか?」

「部屋………」

陽子の顔にじわじわと喜びの色が滲んた。

「夜ならお互いに時間もあるでしょう。王宮にはまだ空いて使わない部屋が沢山ありますし。

図書府に通うのにも街の舎館よりずっと近いでしょう」

「……うんッ!」

陽子は立ち上がって浩瀚の手を取る。

「ありがとう!我儘を言ってすまない。でも、本当に嬉しい!」

陽子に深々と頭を下げられ、浩瀚は軽く手を握り返した。

「私も、楽俊殿にお会いしたかったですから」

陽子は白い歯を出してにっこり笑う。浩瀚は思う。そう、王のこの表情を見られるだけでも価値はあろうと。

 

楽俊が荷物をもって金波宮にやって来たのはその日の夜のことだった。

普通の舎館ですること以外のことは一切しないという条件もさりながら、

やはり陽子の顔も見たかったのだろう。

夕食が済んだ頃合を見計らって陽子が遊びに行くと、待ちかねていたように楽俊は破顔した。

「久しぶりだな、陽子」

いつものように耳に心地よい声。体中に歓喜の波紋が広がる。

「楽俊!」

陽子は駆け寄って、人型の楽俊を見上げた。そして開口一番。

「ひどいぞ。慶に来てるのに内緒にするなんて」

陽子はむくれて言った。膨れっ面の頬を両手で包み込んで、楽俊は苦笑する。

「陽子に頼むと公平じゃねえと思ったから」

落ち着いた瞳の色は、どんな時にも揺るがない。

「でも、秘密にしてたのは謝る。ごめんな」

「うん………」

あ、なんかいい感じ? と陽子は頬を緩ませた。

遠距離恋愛を続けてはや数年。楽俊の学生生活も終わりに近付こうとしている。

………楽俊は官吏になったらどの官につきたいんだろう?

法令に詳しいというから、秋官だろうか。それならまず朝士からというのはどうか。

いや、どちらにせよ雁と慶ほど離れる事はもうなくなる。傍にいてくれる………。

微妙にお互いの距離が縮まる。陽子は楽俊の袍を軽く掴む。目を閉じようとして………。

「楽俊殿、いらっしゃるかの?」

コツコツと扉を叩かれて、二人は飛び上がって離れた。

なんたるお約束なッ! と陽子は扉を睨む。今時、時代劇でもこんなパターンは珍しかったはずなのに!!

そこに楽俊が慌てて駆けて行く。衝立の向こうに消え、やがて穏やかな楽俊の声音が洩れる。

「これは……乙老師。 ご無沙汰しておりました」

扉を開けて、入って来たのは遠甫だった。

「おや、主上もおられたのか。これはお邪魔をいたしましたかな?」

「いや、別に」

投げやりな陽子の返答に、遠甫はその本音を知ってか知らずか、楽俊の部屋に腰を落ち着けた。

陽子としては早く出て行け〜〜と叫びたいところである。

「論題をお聞きしましてな、興味があって是非お話したいと思いましたのじゃ」

「それはどうも……けれどまだまとめておりませんし、むしろ私の方がお聞きしたい事もあるのですが」

へぇ?と陽子は首を傾げる。

「楽俊、何をテーマにしてるの?」

大学生になりそこねた陽子である。キャンパスライフもともかく、大学というものにも興味があった。

大学生になった人の話を聞けば、大学に行って初めて小中高の勉強の意味が分かったのだと言う。

人生の楽しみの三分の一は、大学にあるのだ。とも。

「課題は雁国以外の国について論じよ、って事なんで、おいらは慶国について書こうかと思ってるんだ。

慶は一代の王の治世が他国に比べて短い。それがどうしてなのか、原因が知りたくて」

「それは、普通に道を外したとか、そういうんじゃないんだ?」

陽子が訊ねると、楽俊は苦く笑った。

「道を踏み外すのに普通も特別もねえんだけどな。でも、実際全部が全部王の責任じゃないんだ。

反逆もあったし、暗殺もあった。罪を唆す人間もいたし、例外だろうけど陽子みたいに行き倒れに

なることもある。陽子のは特に例外だな。他国の王の干渉と、偽王と、麒麟の監禁だ。

もし陽子に何かあったとしても、これは陽子の責任じゃなかったろ?

どっちかというと、台輔の責任なんだと思えるけど……」

そこで楽俊が言葉を濁したのは、景麒について何か思うところがあったからだろうか。

間を埋めるように、遠甫が口を挟む。

「楽俊殿は慶史を全部ひっくり返しておられるんじゃよ。これはなかなか面白そうだと思いましてな」

楽俊は微笑む。

「乙老師の御名前も拝見しましたよ。随分と御活躍なさっていたようで」

「若気の至りじゃわ」

あっはっは、と笑い合う二人に陽子は少し疎外感を感じてしまう。

浩瀚や遠甫は楽俊がお気に入りだ。打てば響く楽俊の応答は英俊な人々の目にも心地よい

ものなのだろう。

「☆☆代の治世では××の政策で●●が上奏しましたが……」

「あれは●●が偉大であったの。☆☆が□□の讒言に惑わされなんだら、●●も追い出されず

あと100年は持ったであろうに。その□□は▽▽の乱にの……」

すっかり意気投合して語らう二人の高度な内容は、もはや陽子には宇宙人の会話だ。

時折楽俊が陽子に説明をしてくれるのがせめてもの救いだろうか。

遠甫に向かって、楽俊は私のものだ!!と主張したかった。

部屋は後宮の一室にすべきだったか。陽子はぐるぐると考える。

夜も更けて、陽子の瞼が重くなっても会話は続いた。とかく、学究の徒というやつは夜に強い。語りも長い。

王の激務に疲れている十七の娘には、難解な歴史の講義は子守唄だ。

やがて、こくりこくりと船を漕ぎ出した。

「……陽子? 眠たいならもう寝た方がいいぞ?明日も朝議があるんだろ?」

「……あ、うううん。慶の歴史だもん。もう少し聞きたい…」

上の空で返事をしながら、陽子の意識が半分朦朧としているのは誰の目にも明らかだ。

すぅ、と楽俊の肩にもたれながら、また陽子の目が閉じる。

「……離れたくないんじゃろうなぁ」

しみじみとした遠甫の呟きに、楽俊は僅かに顔を赤らめた。人に指摘されるとやはり照れるものだ。

「楽俊殿は急いでいるようだ、と延台輔からお聞きしましたぞ。雁国の大学の老師方も」

やんわりと遠甫は言った。こうみえて遠甫はなかなかに人脈が広い。

学究の道というのは広いようで狭いものなのだ。

国を越えて交友を深めている。類は友を呼ぶという事なのだろう。

楽俊は陽子を見つめた。ややあって、口を開く。

「……十七の時、二十二というのはそんなに遠いものではないと思っていました。たった五つの差です。

でも、二十二になって十七を思えば、物凄い差がありました。それが、理由です……」

「確かに、離れる一方じゃの……」

遠甫も陽子を見つめた。十七の娘。供王の次に若い、しかも胎果の王。

「すまんの。邪魔をするつもりはなかったんじゃが。馬に蹴られる前に麒麟に蹴られてはの」

「………………は?」

楽俊の目が大きく見開かれた。今、何と言った。キリン?台輔??

「浩瀚殿は別にいいだろうと申すのだが、どうも台輔がごねましてな。

あれはあれなりに主上が好きなのじゃろうか?

傍目には嫌い合うとるとしか見えんのだが。ようはヤキモチで御座りましょうなぁ」

「…………………。」

楽俊は引き攣った顔で微笑んだ。

楽俊がふか〜〜く怒りの念を押し込める間に、遠甫も若いモンはよろしいな、などと笑う。

「まぁ、今宵は主上と楽俊殿が同衾したところでわしが証人じゃ。何もなかったと申せよう」

遠甫が立ち上がり、楽俊は、え?と慌ててそれに倣った。勿論、陽子の体を支えるのを忘れない。

「邪魔をいたした。それではの」

「あ、その、宜しいのですか?」

台輔の手前、陽子をこのままにしてもいいのか、と訊ねたのだが。

「楽俊殿の気質は良く存じておるつもりじゃ。主上の寝込みを襲うなんて出来んじゃろうが」

遠甫に言われて楽俊は苦笑した。成る程、そういうことか。

 

遠甫を見送って部屋に戻ると、陽子はすやすやと寝入っていた。

無邪気な寝顔。この時ばかりは、あらゆる枷から解き放たれているのだろう。

早くここに来たいと思う。永遠に、十七のままの陽子。

臥牀を陽子に明渡し、自分は榻に寝ることにした。榻といっても王宮仕様だから楽俊には充分な広さだ。

陽子を抱きかかえて臥牀に寝かせれば、細い体は前に看病した時以上に軽いような気がした。

あれから、ずっと気持ちは燻り続け、立場と身分ゆえに思いとどまっている。

思い止まりながら、心は急いてただひたすらに前に進もうとする。

学問は、楽しい。知らない事を知るのに興奮する。自分なりに物事を解釈したり分析して、論文にするのも

大変だけれど、わくわくする作業だ。

大学にいる気はないかと勧められた。官吏にならず、学究の徒として一生を捧げてみないかと。

でも、選べなかった。

この身は陽子を求めてやまない。

………陽子が王じゃなかったら良かったのに。

それはいつも最後に残る呟きだった。台輔が別の人間を選んでいたら。と。

時々台輔に悪感情を持つ時がある。

例えば、前王の時もそう。予王に道を失わせたのは彼だろう。王であることの最大の証明になる麒麟に、

一目見て王に向かないと思ったなどと言われては、もともと弱気な彼女が苦しまない方が変だ。

陽子の時にせよ、ようやく助けられた時に言った言葉がもうお目に掛れないと思っていた、だ。

麒麟であることの責任を放棄しているとしか思えない。

王の選定とは、選ぶというそれだけではないであろうに。

麒麟になりたかった、と思う。同じ二つの姿を持つならば、と。

それを思うからこそ、景麒も楽俊に危険なものを感じるのかもしれない。陽子と楽俊を一緒には出来ないと。

独占。

それぞれが陽子に思う罪。

気にかけてくれるのが嬉しい。それどころでないようになってもらわねば困るとも思う。

けれど、どう繕おうと本音はただ一つ。

他の者を見つめないで。ただこの声だけを聞いていて。

楽俊は眠る陽子の手をとった。

そして、その白くて細いてのひらに、静かにそっと口付けた。

 

「よ…こ……陽子、陽子。祥瓊が来たぞ。起きないと朝議に間に合わないぞ」

低い声で囁かれ、陽子は薄く目を開けた。

「しょ…うけい?何か声低い……?」

「祥瓊、駄目だ。寝惚けてる」

笑いを含んだ声が、別の方向に向けられる。

「もう、陽子!早く起きて。楽俊の寝床とっちゃって、寝坊するなんて許さないわよ」

楽俊!!

頭の中でフラッシュが閃いて、陽子はがばりと起き上がった。

起きてから、慌てて身嗜みを確認する。

昨夜はいつもように男物の袍を来ていたから、はしたない格好もしていなかったし

飾りも何もつけていなかったから髪も殆ど乱れていなかった。陽子はそれでひとまず安心した。

好きな人に見られたくない姿というのは、何があっても秘密にしておかなければならないのだ。

陽子は素早く臥牀を降りた。

「ごめんね、楽俊!私あのまま寝ちゃったんだ?」

「人を呼ぶにはもう遅かったからな。おいらは構わねえんだけども……陽子、怒られないか?」

「ああ、景麒は煩いかも……」

楽俊が微かに片眉をあげたが、動転している陽子は気付かなかった。

「とにかく、行って来いって。おいらも図書府に行くし。また、夜にな」

微笑んで楽俊は陽子を送り出す。

「うんっ!また、話を聞かせてねー」

右手を大きく振って振り返り、振り返り行く陽子に、楽俊は目を細めた。

あと二日は滞在する予定だ。景麒を出し抜く機会もあるだろう。

どうやら遠甫も浩瀚も味方らしいし、方法はいくらでもある………。

楽俊がにやりと笑ったことを、景麒は知らない。

そしてその日、遠甫が陽子の使いを命じられることもまた、景麒は知るよしもなかったのである………。

 

 

最強の二人を敵に回した景麒の運命やいかに。

 

 

 

おわる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2001.9.30.


景麒VS楽俊ですv 景麒FANの皆さんは本当にごめんなさ〜〜い!(土下座)
氷魚はどうしても景麒さんは麒麟という立場に甘えているようにしか思えなくて。
王が王の立場に甘えられないように、麒麟も麒麟の立場に甘えられないように
すればいいのに〜〜。と。あれは絶対育て方間違ってますよね。
麒麟じゃないもの。(暴言)麒麟にしても出来悪すぎ!泰麒や廉麟を見習え〜〜〜!


「振幅」と同時発行の「独占」の中に収録していただいた作品。
本のタイトルにもなり、「独占。それぞれが君に思う罪」というフレーズで
皐妃さんが美しい装丁に仕上げて下さいました。(*^ー^*)
しかし改めて読み直すと、景麒VS楽俊モノって、オチの据わりが悪いんですよね。(苦笑)
加筆訂正すればよかったかなぁ、とちょっと反省した作品です。


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