「元気で」

冬の冷気が喉に痛かった。

「おまえ達もな」

「書籍、本当にありがとうな」

「いや。俺の分まで、頑張ってくれ………」

楽俊を見つめて、蛛枕の顔にほんの少し笑顔が戻った。

「あと、人の姿に慣れとかなきゃ、卒業出来ないぞ」

「……うん」

ねずみで良かったと思うことがある。

人間型でいるよりずっと表情を隠しやすいということだ。

蛛枕は手を出した。楽俊も前肢を差し出した。

胸をいろんな想いが通り抜けていく。

その手はとても暖かく、離された手が冷たかった。

「身体に気を付けて」

「奥さん、大事にしろよ」

鳴賢の言葉に、蛛枕は苦笑する。

「まぁ、頑張ってみる」

蛛枕はゆっくりと背を向けた。

見送るのは、二人だけ。

「また、戻って来いよ」

鳴賢が、その背に最後の言葉をぶつけた。

蛛枕は振り返らず、ただそっと片手を上げてみせた。

 

*

*

*

 

いつでもこの時期は辛かった。

別れの季節。年が明ける前は、その年にあった色んなことが清算を要求してくる。

「行っちまった、な。」

「うん……」

楽俊は黙然と蛛枕の消えた先を見つめた。

これからどうするのだろう。職はもう探してあったのだろうか?

奥さんは。子供は?

夢から醒めれば、ただ吹き付けてくるのは現実の風。

鳴賢も普段より言葉少なだった。明日は我が身、と言っていたのだから、多分、

その胸の内は楽俊より複雑なのだろうと思う。

「よし、部屋に戻って飲みなおしと行くか」

「うん…」

鳴賢の気持ちが分からなくでもないから、楽俊は素直に頷いてみせた。

視線を無理矢理引き剥がし、大学へと転じる。

そこに、天をつく山がある。

雁の首都、関弓山。

無意識にそれを見上げた楽俊は、そっと目を伏せた。

理想と夢を捨てて、諦めと悔しさを抱えて。

今までどれだけの人間がここから背を向けて立ち去ったのだろう?

「しけた顔すんのはやめにしようぜ。蛛枕の新しい門出に乾杯、だ」

明るい声で鳴賢が言った。

陽気に振舞う鳴賢は、きっと楽俊以上にそんな彼らを見て来たに違いない。

「おいら、別にしけた顔なんでしてないぞ」

「嘘こけ。俺にはそういう顔に見える」

「生まれついてこういう顔だってば」

鳴賢は笑った。丁度擦れ違った学生が、不審そうにじろじろと見て来た。

学寮に戻ると鳴賢は当然のような顔で楽俊の部屋に入った。

「おいらの部屋なんだけどなぁ」

「文張の部屋が一番居心地がいいんだよ」

「まぁ、いいけどな……」

どうして自分の周りにはこういう押しの強い人間が集まってくるのだろう、と楽俊は

首を傾げてしまった。

大きな声では言えないが、筆頭はこの国の王だったりするのだ。

そういう巡り合わせといってはちょっとスケールが大きすぎやしないか、と自分でも思う。

部屋には先程までいた蛛枕の分の杯もあった。

それを静かに片付けて、楽俊は腰を下ろす。

しばらく、黙々と飲んでいた。

楽俊は酒は少し嗜む程度なので控えめにしていたが、鳴賢は八つ当たりでもするように

飲んでいた。お互いに言葉もなく。

奇妙な静寂は、しかし不意に破られた。

「俺、こういうのはいつまでたっても慣れない」

ぽつん、と鳴賢は言った。

「嫌だよなぁ、友達が皆どっか行っちまうの、俺、嫌だ」

鳴賢は手酌で杯を重ねて顔を歪める。

「文張は、卒業しろよ。絶対、しろよ」

鳴賢の目には縋るような色があった。

「鳴賢、それは公正じゃねえぞ。それなら鳴賢も卒業してくれねぇと」

落ち着いて返答する楽俊の杯に、鳴賢は酒を注いだ。

「いいから。約束してくれよ」

「鳴賢……」

「俺、お前のこと尊敬してるんだ。すごいヤツだって思ってるんだ。

俺はお前が友達だと思ってる。なぁ、俺は文張にとって友達なのか」

「当然だろ。友達じゃなきゃ、ここにいねえもん」

「楽俊……」

お互いに飲みすぎだな、と思った。尚も注ごうとする鳴賢の手を抑えた。

「じゃあ、人の姿になれよ、楽俊」

怒ったような声だった。

「鳴賢?」

「それ、一種の自己防衛じゃないか。俺は、お前のこと尊敬してるんだ。

もう、人の姿でもいいじゃないか」

思いがけない言葉に、楽俊は目を瞠った。

「違うのか? 人の格好してて仲良くしてくれるヤツが、半獣と分かった時に離れられるのが

怖いんだろ? それなら半獣だって初めから見せておいたらそういう奴等は近寄って来ない

って思ってるんだろ?」

鳴賢の声が震えた。

「俺、嫌なんだよ! 半獣ってだけで、他の奴等がお前のこと蔑むの。

お前、凄いじゃないか。そんなの気にしなけりゃいいじゃないか。俺は、尊敬してるんだから」

「鳴賢……」

「……俺は、まだ、試されてるのかッ!?」

「--------!!」

楽俊は絶句した。

試す…………?

そんな風に思われていたなんて、全然気付きもしなかった。

ねずみの姿でいるのは、ひとえに煩わしさを避ける為だった。

人型であっても半獣と差別されるのに、心を捻じ曲げてまで人の姿でありたくはなかったのだ。

しかし、おそらく鳴賢はずっと戸惑っていたのだろう。

変わらぬ態度で接しながら、けれど、ともすれば蔑みそうになる気持ちと、

自分自身の影と、必死に戦っていたのかもしれない。

勿論楽俊には、試しているつもりなんて、欠片もなかった。

けれど、振り返れば、それもまた真実なのだろうと思った。

ねずみの姿をしていれば、常に器量を問われるのは相手の方だったから……。

「鳴賢。おいら、そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん……」

「いいや! 分かってない! お前はどれだけ人に好かれてるか、全然分かってないんだ」

楽俊が顔を伏せたのを見て、ようやく鳴賢は口を閉ざした。

鳴賢は舌打ちしたそうな表情でそっぽを向く。

「ごめん。言い過ぎた」

楽俊は顔を上げた。そしてゆっくり首を振った。

「違う。そうじゃない」

「………え…」

「おいら、確かに半獣だってことに甘えてる部分もあるんだ。大学のことだけじゃなくて。

他のことでも……」

半獣であるということの優位性。

時として、ハンディーキャップを持っていることが一般の人よりも高く評価されることがあるのだ。

--------陽子もまた、半獣だから信用してくれたのではなかったか……。

楽俊の述懐に耳を傾けていた鳴賢は少し躊躇い、そして紡いだ。

「俺は、別にそういうことが言いたいんじゃないんだ。楽俊。

俺が言いたいのは、誰もお前ほどには強くなれないってことなんだ………」

半獣は差別の対象。

それを差別するのは心の問題。

差別すべきでないと囁くのは理解の問題。

だから戸惑う。だから試されているのだと思ってしまう。

理解しているけれど、分かっているのかと。

常に問われているような気がして。

「俺には、お前は誰にも気を許さないんじゃないかって思えてしまうんだ。

ネズミの姿でいるのは、誰に対しても警戒してるんじゃないかって………」

「鳴賢……」

楽俊は項垂れる鳴賢を見つめた。

この世に存在する、誰もが孤独なのかもしれないと思った。

好意を持っている人に対して、疑いの心を持つことはその好意が本物だからなのだろう。

人は孤独にはなれないから。

孤独な人は一番強いという。けれど、それは嘘だ。

それは、弱さを見せないだけだから………。

「……ちょっと待っててくれな」

言い置いて楽俊は席を立った。

鳴賢の視線が困ったように追いかけて来る。

衝立の翳に入って、楽俊は目を閉じる。

きちんと服を着て再び姿を見せると、鳴賢が静かに、ごめん、と謝った。

人の姿の楽俊はひっそりと微笑んだ。

「飲み直そうか。酒はもう過ぎるから、お茶にしよう。

おいらの母ちゃん直伝の饅頭、食べるだろ?」

「……食べるし、手伝う」

「うん」

立ち上がろうとした鳴賢の肩を楽俊は軽く叩いた。

「ありがとうな。おいら、いい友達を持って、幸せだ」

鳴賢はちょっとだけ目を瞬かせた。

そうして、酷く嬉しそうに笑った。

「そうだろ。感謝しろよ」

 

*

*

*

 

「いそぐことはないからな。俺が取った允許については教えてやる。

だから、文張が今年取る講義はこの分と、これとこれ、な?」

相も変わらぬ押しの強い友人の言葉に、楽俊は苦笑した。

「鳴賢と一緒においらが講義とっていいことがあるのか?」

「何言ってるんだ。お互いに分からないところを補い合えるだろ!」

「まぁ、いいけどな……」

もう一度笑いかけた時に、後ろから声が掛けられた。

「あれ、文張と鳴賢じゃないか。秀才二人で何話してるんだ?」

楽俊は揺るがない瞳を上げただけだったが、鳴賢は、ばんッと立ち上がった。

「め。鳴賢???」

驚いた楽俊をよそに、鳴賢は胸を張った。群れていつも皮肉を言ってくる四人組に、

びしり!と指を突きつける。

「わはははは!今年の俺は一味違うぜ!! 行くぞ! 楽俊」

返事もまたず、鳴賢は歩きだす。四人組はぽかんと二人を見送っている。

半ば強引に引き摺られながら、楽俊はそっと笑みを漏らす。

 

 

---------陽子、ほんとに感謝してる。ありがとうな。

ここは寮生も気のいいやつが多い。

鳴賢みたいに良くしてくれる奴もいるよ………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

2001.10.27.


なんだか言いたい事の半分も書けてないですね。(T-T)
うああああ。もっと上手く書きたいーー!もっとオトナになりたいーーー!
未熟な自分の文章を、きちんと書きなおすことも出来ない悔しさが、またツライ。(苦笑)
楽俊って人当たりがよくてすごく優しいけれど、本当はもっと我儘で
意地悪な人だと思うんです。誰かを嫌いだったり憎くない人が、
人を好きになったり優しくしたりなんて出来ません。
楽俊はいっぱい悩んでいっぱい苦しんた人だと緋魚は思うのです。




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