眼前に天に届く山がある。雁国の首都、関弓山。

その岩盤を穿って作られた部屋を、一路目指す。

王宮の一部であり、国府の一部であり、大学の関係者が住む学寮だ。

人目のないところで班渠から降り、徒歩で部屋まで辿り着いた陽子は

髪を撫で付け、衣服を整えてから扉を叩いて声をかけた。

「楽俊、おはよう。来たよ」

隠し切れない弾んだ声が出て、我が事ながら陽子は照れた。

すぐさま部屋の中から返答があって、近付く気配がする。

会う前の一瞬。

この瞬間はいつもどきどきする。

顔に血が上って頭の奥がじんじんと熱くなる。

手の先の感覚がなくなるみたいにすぅっと冷たくなる。

嬉しいのに、狼狽している。

怖いような、逃げ出しそうになる戦慄にも似た高揚感。

……扉が、開く。

思わずぎゅっと目を瞑った。

「久しぶり、陽子」

「…?」

予期していたものより、声が低かった。

陽子は慌てて目を上げた。

現れたのは、見慣れた灰色のネズミではなく。

「うん、楽俊」

陽子は見上げて微笑む。そこにいたのは人間の若者。

若い闊達な顔。穏やかな物腰。

けれども、彼が楽俊であることに間違いはない。

それを証明するように、その瞬間に高揚感は消え失せ、

ひどく幸せな気持ちになる。

陽子は顔いっぱいに喜色を浮かべた。

楽俊といると、すうっと心が落ち着く。

話をしていなくても、一緒にいるだけで安心出来る。

「えらく早かったな。昼に着くんじゃなかったっけ?」

久しぶりに見る楽俊は、やっぱり優しい笑みを浮かべていて、

とにかく、中に入んなよ。と続けた。

「うん。でも、早く会いたくて来てしまった。いいかな」

「悪いもんか。でも、ちょっくら用があるから待っててくれるかな」

「用?」

「本を買いに行くんだ。今日取りに行くことになってて。

昼までに行くつもりだったから………」

「ああ、それで」

それで人間形なわけか、と陽子は納得したが、

そこで楽俊はふと陽子を見つめた。陽子は、何だ?と笑って首を傾げる。

「良かったら陽子も、一緒に行くか?せっかくだし、市の統制を見物してくとか」

「ああ、それは是非見てみたい!

延王からは奏の真似をしたんだと聞いたけど、本当?」

陽子が力を込めて返答すると、楽俊は楽しそうな、

けれど少し痛みを堪えるような表情を浮かべた。

「最初の頃はそうだったみてえだな。今は雁国独自の統制になってる。

国民性に合わせたってことだろう」

しかし、すぐに消えてしまった「それ」に、陽子が気が付くことはなかった。

「ああ、国民性って大きいんだよね。慶は真面目だけど、頑固で困るんだ」

難しい顔をして呟くと、

「何言ってんだ。陽子だってそうじゃねぇか」

すかさず切り返されて、陽子はうっと言葉を詰まらせた。

そんなことはないと言おうとして、言えなかった。

楽俊には随分と、我儘で頑固なことばかりしてしまったような記憶がある。

会ってすぐの頃は、疑って信頼するのに物凄く時間が掛かったし、

お前が王だと言われた時も、王になれと説得された時も手厳しく

撥ね付けたし……。

「…………………」

どよ〜〜んと沈黙してしまった陽子を見遣って楽俊は笑った。

「それにしても相も変わらぬ男のなりなんだなぁ。

もう少し華やかにすればいいのに」

苦笑しながら楽俊は言う。共に旅をしていた時から言われ続けた言葉だ。

「王宮でもうるさく言われるんだ。楽俊まで責めないでくれ」

陽子はうんざりといった顔で、答えた。

「やっぱり動きにくくて嫌なのか?」

「前ほどは嫌じゃないけど。でも、楽俊だって着飾るのは肩が凝るって言ったぞ」

「おいらと比べてどうする」

楽俊はまた苦笑する。

ネズミの時は人間の時と比べれば数段表情にとぼしいから、

今の楽俊の一つ一つの仕種が陽子には新鮮だ。

その返答に、陽子は先刻のお返しとばかり、にやりと応じた。

「じゃあ、楽俊が慶に来たら厳しくする」

「……………。………うん…」

楽俊はほんのりと微笑んだが、陽子の目に、それはとても眩しく映って見えた。

肯定。

楽俊が、慶の官吏として来たらならば、と。

お互いに求め合い、心と瞳の中で交わした約束。

楽俊は耳の下をぽりぽりと掻く。きまりが悪かったり気恥ずかしい時の彼の癖だ。

「よし。それじゃ、昼は外で食べるか。夜まではいいんだな?」

「うん!大丈夫」

陽子はスイッチを切り替えるように満面の笑みを浮かべた。

今日はずっと、楽俊といられるのだ。陽子には、それがなにより嬉しい。

「なら、出掛けようか。おいらも案内するほどには、

まだ街に慣れてねえんだけどな」

「いいよ。いいよ。別に迷ったって」

陽子は心の中で付け加える。

……楽俊が一緒にいるのならば。

 

*

*

*

 

関弓の街はいつも見事な賑わいだった。

店が両側に所狭しと建ち並んで、混み合った道は歩くのにも一苦労する。

一本道だから迷子になる心配はないけれど、はぐれるのが怖くて陽子は

楽俊の隣にぴったりとくっ付いて歩いた。

こういうのって、他の人からみたらコイビトみたいに見えるのかな。なんて思って

一人で赤くなったりもする。

男物の袍を着ているから、実際は若い男子学生の二人連れ、というところだったり

するのだが。「寄り添う」ほどの近付き方ではないし、陽子の態度が

いつものごとくなのでそれは仕方のないことだろう。

楽俊は書籍はともかく、工芸品や服飾、食べ物や玩具のたぐいまでなんでも

見て回るのが好きだった。それは旅をしていた頃とちっとも変わらない。

商店街だから一つ一つ店頭を覗いていくのだが、故郷の百貨店なんかに

彼を連れて行ったら、一日あっても出られないかもしれない、などど

想像して陽子は顔をほころばせる。

固いつぼみが八重の花弁を開いたように、その様はとても清らかな艶やかさだ。

楽俊がふと目を止めて見つめたのを、陽子が気付いて

「あ、今、私変な笑い方した? 何か気持ち悪かった?」

と、ひどく慌てて言った。

「いや。そんなことはねぇけど」

思わず吹き出しそうになるのを、袖で抑えて楽俊は答える。

けれど目が笑っているのは隠せない。

「べっ、別にやらしいこと考えてたわけじゃないよッ!

思い出し笑いじゃないから……」

「や、やらしって………ν。何だ、それ? 慶だとそんな風にいうのか?」

「あ、いや。あっちの世界でそう言ってたんだ。こっちでは違うんだな。

うん、そうだよね」

お互いに妙に焦ってしまって視線を相手から外した。

陽子は赤くなったまま、そろそろと話す。

「うん、あのね、あっちに百貨店ってあって、大きな一つの建物の中に

いっぱいお店があって、そこで買い物が出来るんだ。商品も沢山並んでる。

それを客が見て回って、好きなものをとってレジ……いや、お店の人に

渡すと勘定してもらえるようになってるんだ」

「へぇ……?」

「そういう所に楽俊を連れて行ったら、一日あったって飽きないだろうな、と思って」

「そんなに広いのか? 面白そうなとこなんだなぁ。あっちって」

にこにこする楽俊に、陽子はああ、と思う。

子供の頃は親に連れられて買い物に行くのがとても楽しみだった。

必ずおやつを買ってもらって、家族で行った時は外食したものだ。

棚に並べられた商品がライトに照らされてきらきらと美しかった。

そんな小さな沢山の感動を、感動として気が付かなくなっていったのは

いつの頃からだろう。

これが好きとか、嫌いとか、綺麗だとか素敵だとか、そういうものが自分で

分からなくなって周りの声に流されるようになったのは。

周りと同化することが、成長することだと思っていたあの頃。

「あれ?文張じゃないか」

不意に前方の雑踏から声が上がった。

考え事をして半歩遅れていた陽子は、立ち止まった楽俊に見事に

追突してしまった。

「あ、ごめんな、大丈夫か?」

「ううん、こっちこそ」

人間形の楽俊と陽子は頭一つ分違う。

額に楽俊の痩せて浮き出た肩甲骨が当たって、平気とは言ったものの、

結構痛かった。

と、謝り合っている間に先程の声の主が現れる。

身なりも良さそうな楽俊と同年代の若者が、二人。

「よぉ、文張」

「お前も買い物か?」

学校の友達だろうかと陽子は見当をつけた。

ただ、それにしては随分と軽佻浮薄な印象を受けるが。

「ああ」

声の質は変わらなかったが、楽俊が微妙に陽子を庇う位置に立った。

「?」

不可解ながら、陽子は邪魔をしないように静かにする。

「そちらは?」

若者の一人が陽子を指して訊ねた。

「おいらの友達で中陽子という。わざわざ訪ねてくれたんだ」

陽子は黙って会釈する。なんだろう。気味の良くないざらつき感がある。

「じゃあ、半獣か」

言われた瞬間、怒りが全身を駆け巡った。

その言葉に明らかに蔑む色が塗りたくられている。

前に出ようとした陽子の体を、けれど後ろ手に楽俊の手が引き止めた。

「陽子は違うよ」

落ち着いた楽俊の声が遠く聞こえた。

怒りはまだ体の中でぐるぐるとのたうちまわっていたが、

陽子の感覚は楽俊の手の中にある自分の手の方に集中していたのだ。

(……ってゆーか、楽俊!! これ、コイビト繋ぎ〜〜〜ッ!!)

頭の中はぐるぐる真っ白だ。

別に意図してしたものではないだろう。咄嗟に掴んだだけなのだとは思うのだが。

「じゃあ難民か?」

「慶国の者だけどな、難民じゃねぇよ」

悪戯っぽい笑みが楽俊の顔に一瞬だけよぎった。

「可哀相にな。巧も、慶も、雁と違って不安定で」

………ぎくりと、陽子の四肢が強張った。

延王は本当に希代の名君だろうと思うし、心から尊敬しているけれども、

その言葉はまだ未熟な王である陽子の胸をぐさりと抉った。

慶の民は、ずっとそんな言葉で痛めつけられていたのだろうか。

もしそうだとしたら、陽子の責任ではなくても、とても苦しい。

慶の民は、陽子の子供たちであり、陽子の体だ。

陽子自身、なのだ。

きゅっと唇を噛み締めた時、楽俊の手が強く握り返してきた。

「………!」

「おいらも陽子も、全然可哀相じゃねぇよ。

どの国でもどの人でも、苦楽は同じ数だけある。

貧乏は苦しいけど、裕かな人が苦しくないってこともない。

何が幸せで何が不幸かなんて、その人にしか分からねぇもんだろ?」

陽子の位置からは見えなかったけれど、微笑みすら浮かべて

楽俊は言い切っていた。

皮肉ではない。

それは、楽俊から陽子に伝えられた言葉だったから。

若者二人が言葉を失った絶妙のタイミングで、楽俊は陽子の手を引いた。

「悪いけど、おいら昼までに本を取りにいかなきゃならねえんだ。

そういう約束だから。また、学校でな」

さっさと背を向ける。

昼飯に二人で食うのか、と後ろから聞こえよがしの嘲笑と悪態を

投げつけられたが、楽俊は綺麗に無視して陽子が振り返ろうとするのを

止めた。

「嫌な思いさせて、ごめんな。陽子」

しばらく進んだところで、楽俊は苦い声で言った。陽子は手に力を込める。

「楽俊のせいじゃ、ない」

それで気付いたのだろう。楽俊は繋いでいた手を慌てて離した。

「あ、や。すまねえ」

「だから、楽俊が謝る事なんて一つもないよ」

陽子は思わず笑ってしまって、楽俊は、黙然と耳の下を掻いた。

 

本を受け取り、昼食を済ませると、帰り道、楽俊は陽子を公園に誘った。

秋だから花は多くない。人の姿もまばらで、高い空を飛ぶ鳥の鳴き声が

よく響いた。

大きな公園だった。

イギリスの庭につくられた迷路を彷彿とするくらい、よく手入れされて

街の真中にあるはずなのにそこだけ違う場所のような錯覚を起こす。

「サルスベリだね」

「さるすべり? ああ、あっちじゃそういうのか」

「こっちでは違う? 幹がつるつるだからあっちではそう呼んでたよ」

赤い花を咲かせた立ち並ぶ木々は風に花弁を飛ばす。

「猿も滑る、か。なるほどなぁ。こっちでは百日紅っていう」

「あ、漢名はそうだった気がする」

「漢?山客の国の漢か?」

「そう」

楽俊は遠い目をして空の向こうを見遣る。

「おいらも、一度でいいからあっちの世界を見てみたいなぁ」

陽子はその言に、ほろ苦く笑う。

「別に、おとぎ話のような理想郷じゃないよ。こっちも、あっちも同じだもの……」

「……………」

楽俊は陽子に向き直って唇を僅かに開いた。

しかし、結局それだけで、目を伏せて何も言わない。

陽子は目を逸らし、別の花を指す。

「これは芙蓉?」

「八重の芙蓉だな。酔芙蓉ともいう。白と赤が一本の木に咲いてるだろう?

朝は白いんだけど、夕方に赤くなるんだ。それでだな」

植物の種も、名も、同じ。こちらの世界と、あちらの世界は、きっとどこかで

繋がっているのだ。

「これは?」

「これは何だったかなぁ。槿か? また、調べとく」

生真面目に答える楽俊に、陽子は微笑む。

「これは、紫式部だ。きっとこっちじゃ違う名前なんだろうね」

「ムラサ……?確かにあっち風な名前だなあ。謂れでもあるのか?」

「人の名前だよ。女流作家でね、昔お話を書いたんだ。

世界最古の長編小説なんだよ。覚えさせられたなぁ。

いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、

いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり……って…」

「面白そうだなぁ」

「そ、そう……?」

日本の古典の言葉がどのように翻訳されたものか、楽俊はうん、と頷いた。

「…はじめよりわれはと、思ひあがり給へる御方々、めざましき者に

おとしそねみ給ふ。おなじほど、それより下揩フ更衣たちは、まして

安からず……」

「今も昔も。あっちもこっちも。同じ、か」

少しだけ哀しそうに、楽俊は呟いた。

え?と聞き返してから、あ、と陽子は口元を抑えた。

しまったと思った。そういう意味の、文章だったのだ。

しかし、出した言葉はもう戻らない。陽子は俯き、地面を見つめる。

「……うん…。そうだね。どこでも、競争はあるね」

先刻の二人もそうだったのだろう。自分より優れた人に負けるのは

我慢が出来ても、自分より劣っていると思うものに負けるのは堪え難い

苦痛なのだろう。だから、貶める。けれどそれが逆効果なのだと

理解することも出来ず。

貶めれば貶めるほど、追い詰められるのは彼らの方なのに。

「他人に勝つ必要なんて、一つもねえのにな。

自分に負けなきゃ、それでいいのに」

楽俊の言葉を聞いた途端。

そう言われた途端、なんだか急に目の奥が熱くなった。

涙が零れた。

ぼろぼろと地面を潤した。

「よッ。陽子ッ………?」

振り返った楽俊が狼狽の声をあげた。

抗いがたい誘惑に負けて、楽俊の袍の中に顔を埋めた。

心の底から湧きあがるものが、溢れ出して袍を濡らした。

「私、怒ればよかった。楽俊に酷い事言うなって、喧嘩してやればよかった!」

突然の感情に突き動かされるままに、泣きじゃくりながら陽子は言った。

「おいら、慣れてるからそんな気遣いはいらねえって」

「違う」

陽子は大きく首を振る。

「私は、怒った振りをしただけだった。楽俊が止めてくれるって分かってて、

ここで騒ぎにしちゃいけないとか、別の事も冷静に考えてた。そんな自分が、

すごく悔しい」

楽俊を好きだと思い込むことばかりが上手になっていた。

感動しているのだと自分を騙すことばかりが上手になっていた。

楽俊を好きなことは本当。

楽俊といて、楽しい事も、感動することも本当。

けれど、そう見せようとしていた自分がいることも本当なのだ。

周りばかり固めて、中身が空っぽだったあの頃とどこが違うのだろう!

つと、空を彷徨っていた楽俊の手が陽子の背中をそっと撫でた。

「陽子。本当って何だ?「振り」でも、おいら陽子が怒ってくれて嬉しかった。

陽子には「振り」でも、おいらにはあれは「本当」だった。

それって、本当じゃねえのかな?

本当なんてひとつきりじゃねえぞ。おいらには姿が二つある。

本当のおいらはどっちだ? そんなこと、意味のない問題だろう。

陽子の本当は、陽子の「振り」の集合体なんだ」

楽俊はそこまでを一息に言って、優しくぽんぽんと背中を叩いた。

「なぁ陽子、おいら、あの二人と諍いは起こしたくなかった。

だから陽子を止めた。

陽子はそれをちゃんと察してくれたし、騒ぎにもならなかった。

でも、おいらのために怒ってくれてた。

おいら、すごく嬉しい。陽子の気持ちが、嬉しい。」

「………本当?」

陽子はおそるおそる顔を上げる。

「勿論。振りじゃねえぞ。本当、だ」

そういって、楽俊は微笑む。

「泣くな。今回たまたま人間形だったからいいけど、そう都合よく

人目がない場所なんてないぞ。おいら、ネズミだと届かねえんだからな」

陽子の笑った顔に、楽俊の袖が残る涙を拭いてくれた。

泣きながら、陽子は声を立てて笑った。楽俊も笑った。

笑った二人のその顔に、秋の夕暮れが光を投げかけていった。

泣いて赤らんだ顔も、少しは誤魔化せたかもしれなかった。

 

*

*

*

 

夕食は楽俊の部屋で食べた。一人暮らしの生活を送っていたせいもあって、

楽俊の料理はとても美味しかった。ひそかに料理の修業を決意したのは

陽子だけの秘密である。

沢山の話をした。祥瓊や鈴や国や延王の話、延麒の話、浩瀚のこと、

景麒のこと。大学のこと、勉強のこと、そこで習った面白い雑学や法令のこと。

沢山話をするのに、肝心のことは話せていないような気がした。

もっと会いたい。ずっと一緒にいたい。

けれど時間は無情に過ぎていく。

やがて班渠が主上、そろそろ。と声をかけた。

隣国とはいえ一国は遠い。

飛行機はどうやって作られて、どうやって飛ぶのだろうと思った。

その存在は当たり前に知っていて、なんの感慨もなく乗っていたものなのに、

そんなことも知らない自分が情けなかった。

「うん……じゃあ、またね、楽俊」

「今度は花が咲く頃にまた行けるといいな。あの公園」

「うん」

「これ、土産だ。落としちゃならねえから、帰ってから開けるんだぞ」

「え?何?私、何も用意してなかったのに……!」

楽俊は目を細める。

「気にすんなって。今日の、礼」

「お礼って……私の方こそ…!」

「じゃあ、今度来たときにゲンジ…?なんとかって話また聞かせてくれ。

すごく面白そうだったものな」

「源氏物語…を?」

アレを、楽俊に話すのか?

頬を伝う冷たい汗を感じながら、陽子は引き攣った笑いを浮かべた。

アレを、子供は里木になるというプラトニックな常識の楽俊にどうやって

説明しろとッ!?

「楽しみにしてる」

「う、うん……」

しかし陽子は曖昧に返答して、頷いた。次に来るまでの課題にしておこう。

「それじゃ」

貰った土産の箱をしっかりと持って、班渠の背にまたがり、陽子は手を振った。

「頑張り過ぎて体壊さないでね」

「ああ」

不意に、その手を楽俊が掴んだ。

驚いた陽子に、

「また、な」

言い置いてその手はすぐに離され、温もりだけが陽子の手に残される。

「う、うん。またね」

班渠が地を蹴った。

いっそ爽快なほど、見る見るうちに、楽俊の姿は小さくなっていく。

「また、ね……」

別れた瞬間、襲うのは再びの高揚感と寂寥感。

今日の出来事を反芻すれば、顔から何度も火が出そうになる。

「班渠、ちょっと大人しく飛んでね」

言わずとも無茶な飛び方はしないけれど、陽子は懐から箱を取り出した。

早く見たくて待ちきれなかったこともあるし、しばらくは余韻に浸りたい気持ちも

あった。慎重に包みをとって箱を開け。

「…………!……楽俊ッ!」

息が詰まった。

それは、淡紅色の玉のある銀の簪釵だった。

もう少し華やかな格好をすればいいのに、とずっと言い続けていた楽俊。

いつ買ったものなのだろう。薄紅色の玉は今日見た酔芙蓉と同じ色。

大人しい装飾は華美を嫌う陽子の好みそうなもので。

昨日今日買ったものじゃない。

よく見れば包みの紙は色褪せ、折り目がくっきりとついて擦れている。

陽子はそれをじっと見つめた。

泣き出しそうになって、ぐっと堪える。

泣くな。

涙をぬぐってくれる楽俊はもういない。

陽子はそっと箱を元に戻した。

次に会うときには少しは華やかな格好で行こうか。

せめてこの簪釵を挿してもおかしくない位に。

源氏物語を六太くんに頼んであっちから買って来て貰って。

きちんと話が出来るようになって。

古典の勉強としてではなく、同じ女性として、どんな気持ちでそれを書き、

どんな気持ちを込めたのかを心の奥底で感じる事が出来るようになって。

自分に負けなければいい。

自分に嘘をついて諦めたり、欺かずに済むように。

「班渠」

----はい、主上。

陽子は箱をしっかりと懐の奥にしまう。

「もう、いいよ。全開で飛ばしちゃって。早く帰って、お仕事しなくちゃね」

-----……かしこまりまして。

班渠の速度がぐんと上がる。

そうだ。帰ろう。

陽子は毅然と顔を上げ、正面を見据えた。

慶は、まだまだ陽子の力を必要としている。

荒れた田を耕し、水路を引き、大地を潤して、

平和な国を築かねばならないのだ。

……帰ろう。

帰らなければならない。

そう。慶には、多くの民の希望と。

楽俊の未来が待っているのだから………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

2001.9.23.


ちょっと残酷な話でしたかね? ……。
意地悪するつもりはなかったんですけど。
痛かった人は本当にすみません!!ν

因みに後日、陽子に頼まれて源氏物語を
買って来てあげた六太くんが、延ちゃんと一緒に
楽俊をからかい抜いたのは、また別のお話v(笑)


実は、最初に漫画化の話があった時に、候補にあがっていたのが、この「訪問」と「陰謀」でした。
皐妃さんがどうしてこの作品を選ばれたのかは、よくわかりません。(^^;
正直に言うと、自分ではこの手の説教話は苦手なんですよね。(苦笑)
しかも紫式部って・・・・。当時のわたしが何を考えてこの話を書いたのかもよく覚えていないのですが。
あの紫式部のシーンをどうしてもはずしたくて、でも物語の中に組みこまれていてはずせなくて、
漫画化するなら「占星」に、とお願いしたのが「占星」漫画化の始まりだったという・・・・。(滝汗)
最終的に、収録せずに逃げ切りました。えへへ〜。(逃亡)


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