序 幕

 

茅野むぎ

 

 

名前は、「張清」というごくありふれたものだった。

鳴賢がその新入生の事を気にかけたのは、彼のまったく『ありふれて』いない経歴のせいだ。

二十代前半での入学も珍しい事なのに、首席で半獣でおまけに雁の民ではないときている。

張は入学前から、既に学内でも三本の指に入る有名人だった。

総じて大学の学生は全ての物事を手放しでは誉めない為に、大体において

飛び交う彼に関する話は、量の多少はあれども辛味のきいたものとなる。

「船が沈みかけ、ネズミが一匹海を渡って食うに困ってやってきた。」

という悪意ある表現を、鳴賢は耳にした事もあった。

そして鳴賢にとって不本意な事に、張に関する噂話では定番の「卒業できない伝説」の対象が

「首席入学生と十代の入学生」だった為、彼の名がひんぱんに学生の間で

引き合いに出される様になったのだ。その話の流れは

「張は首席だ、お気の毒に。鳴賢をみろ、伝説はどうも正しそうだ」

となるらしい。

「おいおいせっかく有名人から一般大学生になってたってのに、また脚光を浴びちゃってるぞ俺!」

酒を交わしながら、鳴賢は蛛枕に軽口をきいて苦笑する。

本当は結構深刻に迷惑している事を蛛枕は心得ているようで、神妙な顔で肩を叩き

「まあ入学式までのしんぼうだ。本人が来たら実際の彼の行動への噂でもちきりになるだろ。」

と鳴賢を慰めた。

「その張清という奴も可哀想にな。底意地の悪い先輩の目が入学前から光っていて。」

蛛枕は笑いを含みながら、それでも心から気の毒そうに言う。

鳴賢は張に対してもう少し複雑な感情を抱いていたので

どこか冷めた心持ちであいまいに相槌を打ったのだった。

たぶん、と鳴賢は想像する。

たぶんそいつは若さと、それから自分の才能への自負で驕りを纏ってやって来るだろう。

鳴賢が仮に「大学はそんなに甘く無いぞ」とおせっかいに忠告しても、

「あんたは挫折したからそう言うんでしょう?俺はそんな事にはならないよ」

とかつての自分がそうだった様に、内心鼻で笑うだろう。

鳴賢は張が鳴賢のたどった軌跡をなぞっていく様を想像してぞっとした。

自分が見苦しいと思っている己の姿を目の前で、しかも衆目の中でさらしていく人間を見るなんて

気分が悪い事この上ない。

そしてそれ以上に気鬱なのが、張がかつての自分と同じ姿をしていながら、

順調に周囲の期待にこたえていく、という想像だった。

それからもし張がとても気持ちのいい奴で、さらに大学内でも優秀な奴なら、

と仮定し直してみても同じ様な不快感が身の内からせり上がってくるのだった。

俺は入学前から既に張が挫折する事を期待してるのか?

鳴賢は自問する。そして問いかけの形をとった自分の本音に彼は苦々しく笑った。

・・・おそらく俺が学内で一番「底意地の悪い先輩」なのだろうな。

そう思いながら彼は張を脅威に感じている自分を自覚していた。

鳴賢は傍らで好き勝手に飲んでいる蛛枕の名を呼び、返事する彼に向かって

「俺は、新学期からちょっと・・・いや、蛛枕からは目に見えて嫌な奴になるかもしれない。」

と卓に置いた酒盃を見つめながらひとりごちる様に言った。

他人の一挙一投足を気にして心動かす事を鳴賢はばかげた事だと思うし、

そんな姿を表に出すのも嫌いではあったが、実際のところ張の存在に動揺している自分がいる。

妬心からくる焦りが張への態度を決めてしまう事もあるかもしれない。

鳴賢には絶対にそうはならない、自分は全く変わらない、と言いきれる自信がなかった。

蛛枕は「ふむ」と小首を傾げ「わかった。」とあっさり頷いた。

それから「『わかった』って・・・」と呆れる鳴賢に

「お前がそれを自分で許すなら、俺は何も言わんよ。」

と静かに付け加えたので、鳴賢は苦笑した。

蛛枕はさらりと厳しい事を言う。

「・・・ただ、許すつもりがないなら、嫌な奴になった時はこっそり袖を引くが。どうだ?」

一拍間を置いて、蛛枕は今度は眉を上げ柔らかな口調で付け加えた。

鳴賢は友人の気遣いに感謝し、屈託なく笑う。

それから、「ぜひともお願いするよ。」と頷き、気を取り直して酒盃を口に運びながら、

もう少し前向きに入学後の張と自分の関わり方について思い馳せてみるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

了.

 

2003.4.22.




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