雁国に着いたのは、もう夕方を過ぎて宵になった頃だった。

寮の露台に降り立って、陽子は髪や衣服の乱れを正す。

街に降りて手入れを怠っていたから、顔や手はよく日に焼けて少しかさついている。

祥瓊のように透ける白い珠に似た肌は陽子には望むべくもない。

今まで、それを望んだこともなかったけれど。

玻璃を嵌め込んだ窓は開いており、目隠し用の衝立があった。

陽子は大きく息を吸い込んで、衝立に手をかけた。

「楽俊、遊びに来た」

窓が開いてるから、居るか?と聞くのも変なようだったし、

こんばんは、というのも妙でそう声を掛けたのだけれど。

うわわああっ。という奇声が内側から弾けて、陽子は一瞬硬直した。

見慣れた灰色の毛並みはそこにはなく。

珍しく人の姿の楽俊がいた。

生真面目そうな、怜悧な顔立ち。

相変わらず痩せていたけれど、健康そうな身体つき。

露わになった上半身の、その背中に残る一条の、傷痕。

「ごッ!ごめん!!」

陽子は慌てて衝立を元に戻した。

「湯を使ってたって知らなくて!!」

言わなくてもいい事を思わず口走ってしまってから、しまった、と頭を抱え込んだ。

部屋の中から楽俊の軽い溜息が洩れる。

「ま、いいけどな……」

背後で衝立が動いた。

「なんで露台から来るんだ。普通に来ればいいだろう」

ほたほたと足音がして、しゃがみこんでいる陽子の肩にちょこんと前足がのせられた。

「延王はいつもそうしてるって聞いたから」

おそるおそる振り向くと、ネズミ姿の楽俊が苦笑している様子で立っていた。

「陽子まで延王の真似しなくてもいいだろう」

「楽俊に迷惑にならないかとも思ったし」

思って、露台から来たらこの有様だが。

「とりあえず、入んなよ。散らかってるけど。

それは、前もって連絡しない陽子がいけないんだぞ」

手を引かれて、陽子は苦く笑う。

「ごめん。今度からはなるべくそうする」

 

散らかっている、と言っていたけれど楽俊らしく部屋は清潔でそれなりにきちんとしてあった。

書物や勉強の資料と思われるものは、とりわけ丁寧に扱われている様子だ。

頑張ってるんだな、と陽子は感動に近い気持ちでそれを見る。

「お茶でいいか?」

「あ、いいよ、楽俊。私がやる」

「陽子は客なんだから座ってなって」

「無礼な客だけどね」

「全くだ」

楽俊は屈託なく笑う。

「お湯を使う時は人間形になるんだね」

「洗うのはそっちの方が楽だからな。ネズミだと背中に手が届かねぇ」

その様子を想像して、陽子も笑った。本当に、ここは居心地がいい。

用意をする楽俊の背を見ながら、陽子は部屋の空気を胸いっぱいに吸い込む。

部屋は懐かしい楽俊の匂いがした。

不意に甦るのはあのつらい旅の光景。飢えと、渇きと、死が身近にあった日々。

あの頃も暑かった。今日のように。

今は失う事すら考えられない楽俊を、この手で殺そうとまで思った日。

「楽俊」

「なんだ?」

ネズミの楽俊はちょっと振り向いて応じる。

初めて会った時もそうだったように、全く疑うことも警戒することもない楽俊。

「午寮の街のこと、覚えてる?」

「忘れるもんかい」

楽俊が身体ごと向き直った。その手に椀を二つ、持っていた。

楽俊は不快感の欠片も見せない。あれだけの事があったのに。

「私はあの翌日に、午寮の街に戻った」

楽俊はきょとんとした。

「逃げたんじゃなかったのか?」

「いや、逃げたんだけど。止めを刺そうとまで思ったけど……。

でも、楽俊を信じたいと思って、楽俊の怪我が気になって、戻ったんだ」

「危険なことをするなぁ。そりゃ、おいらは嬉しいけどさ」

楽俊は照れたように耳の下をぽりぽりと掻いて目を細めた。

「うん……」

楽俊は決して嘘をつかない。いつでも本当のこと、正直に思ったことを言ってくれる。

「翌日の、いつ頃だ? なんで会えなかったんだろうな」

「翌日の朝からずっといたんだけれど、私だ、って知られる度に逃げたから。何度か街から離れたんだ」

陽子はあの頃の痛みを思い出して、静かに俯く。

あの時の母子は今、巧国でどうしてるのだろう。

あの時怪我をした人は。亡くなった人は。その家族は。

「そうか。おいらは翌日の昼頃に出発したからなあ。擦れ違ったんだろうな。きっと」

あの母親が楽俊の不在を教えてくれたのは夕刻近くだった。

「怪我は、大した事なかったの?」

「ああ。それなのにすこんと意識失っちまうんだから、情けない」

陽子は先程見た背中の傷痕を思い出す。

普通の人間があの傷痕を残すくらいの怪我とは、本当に大したものではないのだろうか。

意識を失うくらいなのに、それでも翌日には旅に出れるほどの傷だったのだろうか。

神になった陽子には分からない。人間だったころは怪我らしい怪我もしなかった。

あの時、陽子は宝珠を渡せなかった。あれがあったならば、あるいは………?

「そういえば、陽子は何の用だったんだ?」

「え?」

問われて陽子はハッと顔を上げた。

「何の用もなく遊びに来れるほど、慶国の官も甘くはないだろう?」

「うん……」

陽子は苦笑いする。本当は、殆ど発作的に飛び出して来たようなものなのだけれど。

「祥瓊に楽俊の話を聞いてたら、なんだかとても会いたくなってしまって」

祥瓊、と楽俊は髭をそよがせた。

「祥瓊は元気か?」

「うん。女史になってもらって私の世話をしてもらってる」

「頑張ってるんだなぁ、祥瓊も」

「うん……」

胸の奥でちりりと痛みが走った。

ああ、と思う。本当に、くだらない事なのに。

「冬の和州の乱の後に一度会ったけど、陽子の事を色々教えてくれた。

鈴って友達も出来たって。陽子も鈴も他人とは思えないって言ってたな」

「祥瓊も私も、楽俊に救われたしね」

出した声は我ながら固かった。楽俊が少し首を傾げる。

「どうした?陽子」

「…………」

楽俊は不思議そうな顔で陽子を見た。微妙な感情のこもった視線に、陽子は赤面する。

「本当に、くだらないことなんだ。笑ってくれてもいい」

「でも、陽子には大事なことなんだろう?」

陽子は楽俊を見つめた。

本当に、楽俊はすごいと思った。だから陽子はぎこちなくうなずき、ゆっくりと口を開く。

「祥瓊も楽俊のことを恩人だって言ったから、少し、悔しかったんだ」

「悔しい?」

「だって、楽俊は私の命の恩人じゃないか」

言ってて、自分でも訳の分からない言い分だな、と思った。

本当は、言いたい事はそれではない。

「楽俊は誰にでも優しいだろう?皆、楽俊救われる。それが、何だか悔しくて」

本当は、祥瓊が羨ましかった。妬ましかった。

楽俊と旅をしたこと。楽俊と話したこと、楽俊に色々なものを教えられたこと。

楽俊と一緒にいた、そのすべてが。

「おいらは、誰にでも見境なしに優しくなんてしてねえぞ」

楽俊は苦笑して反論した。

「優しいじゃないか」

「いや、優しくねぇ。おいらが祥瓊を助けてやったのも、陽子がいたからだぞ」

「……私?」

陽子はぱちくりと目を瞠った。

「そう。祥瓊を助けたのはおいらに余裕があったからだ」

楽俊はにっこりと笑う。

「あの時、旌券の裏書きは冢宰がして下さっていたし、そもそも柳国に行ったのは雁国のためだったんだ。

路銀だってかなりの額を貰ってあった。だからちょっとやそっとのことなら大丈夫だって思ってた。

その余裕の分は誰のおかげだ? 巧国にいたころのおいらじゃ、絶対無理だった。

陽子がいたからだろう?」

「それは違う」

陽子は激しく首を振って否定した。

「余裕がなくても、楽俊は祥瓊を助けたはずだ。だって、楽俊は私を助けてくれたじゃないか」

「どうかな…」

楽俊は笑ったが、今度は少し自嘲の色が滲んでいた。

その顔は、少しつらそうにも見えた。

「おいらは、祥瓊を見たとき、ああ、陽子だ、って思った。

おいらが会った時の陽子と、祥瓊が重なって見えた。だから、助けてやりたいと思った。

陽子がいなきゃ、おいらはあの場所にもいなかったし、祥瓊を助けようとも思わなかったろうな」

お互いにしばらく黙り込んだ。

陽子はむくれたように俯いたままだし、楽俊は穏やかに陽子を見つめるだけだ。

楽俊の言葉は嬉しい。陽子は、思う。

でも、どうしてもそのままをすべて受け入れて納得することが出来ない。

-------何故なら。

「…祥瓊の方が女らしいって言った」

「…………は?」

楽俊が間の抜けた声を出した。

「私はぶっきらぼうだ、って」

陽子の言葉に、楽俊は絶句している。

「祥瓊は美人だ。公主だったし、物腰はしとやかだし、上品で……」

陽子の言葉は、しかし途中で噴き出した楽俊の笑い声によって遮られた。

「祥瓊もそうだったけど、本当に女の子ってよく分からねえなぁ」

爆笑、である。

「楽俊!」

「いや、すまないと思うけど。あんまり可笑しいからさ」

目に涙さえ溜めて笑いつづける楽俊にムッとしながら、けれど陽子はどこかほっとした。

そうだ。やはりくだらないことなのだ。

祥瓊と自分を引き比べることは、自分でも分かってたくらいに、つまらないことなのに。

「例えそこに絶世の美女がいたとしても、おいら、その人は助けてねえぞ。

祥瓊は陽子に似てたから助けたんだ」

「そうか」

「そうだ」

楽俊はふっくりと微笑む。どこまでも優しくて深い笑み。

「おいらの背中、見ただろう?陽子」

「うん……」

思い出して、少し顔が熱くなった。いまさらながら気恥ずかしい。

「おいら、つらくても、怪我してでも助けたいと思ったのは陽子だけだぞ。

そりゃあ、あの頃は陽子の事を景王とも知らなかったし、かなり驕ってもいたけどな」

「驕ってた?楽俊が?」

陽子にはこれほど楽俊とかけ離れた単語もないと思うのだけれど。

「その反動で陽子が景王だと知った時には卑屈になっちまったけどな」

楽俊は困ったように笑った。

「でも、おいらの中では陽子が一番の友達だ」

楽俊の笑みが微妙に変化しているのを見つけて、陽子は満面の笑みを浮かべた。

「私も、楽俊に一番感謝している」

お互いに、決定打を言い出すことはなかった。

けれど、今のこの状態の空気はとても気持ちが良かった。

やわやわとして、どこか暖かくて。

赤ん坊の頃の、うとうとする時にもにて。無防備に安心しきった満足感。

「だから、安心してていいぞ。おいらも一生懸命勉強するから。陽子も、頑張れ」

主席で試験を通った楽俊。

優しさと、強さと。痛みを知って、乗り越える術を持つ楽俊。

雁国でも容易に官吏になれるだろう。彼さえ望むのなら、どこなりと。

十二国の中に彼を拒否する王がいるのなら、その王の目は節穴だと陽子は断言出来る。

「また、慶に来てくれ。ずっと、待ってる」

何重にも意味を重ねた言葉に、楽俊は目を細めた。銀色に光る髭がきらきらとそよぐ。

「背中に、刻まれたからな。おいらの天命は……」

陽子は微笑んだ。

楽俊はそれを眩しげに細めた目で見上げる。

 

いつか、かならず時は来るだろう。

慶にある王宮で、官服を着た楽俊に会える日が。

その時こそ、誓約をするのだ。

…………麒麟が王にするように。

 

 

 

『ずっと、一緒に生きよう』 と…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

2001.8.18.


すみません。単なる緋魚の妄想ドリーム話です。(笑)
祥瓊とじゃなく、陽子ともう一度旅をして欲しかったなぁ、と思って。
陽子ちゃんは祥瓊が羨ましかったろうなぁ、しかも
祥瓊の方が女らしいって言われたらやっぱねぇ、と
女心に疎い楽俊の言葉へのツッコミも込めて書きました。(^^;
あんなに博識でよく気もきく楽俊も、やはりまだまだ若造なんですねぇ。
けど、楽俊ならそれもまた良しなのですよ!!(笑)

本では皐妃さんの挿絵が入っていて、超美麗な楽俊の上半身が拝めましたね。
あれは美味しいカットだったなぁvvv えへへ。
眼福眼福。 ごちそうさまでしたvv じゅる。(←!?)


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