慶国で蝕があったと聞いたのは、寒も緩んだ冬の終わりの頃だった。

巧国と慶国をかすめるようにして起こったというその話に、楽俊が無関心でいられたはずもない。

「どうしてるかな、陽子……」

楽俊はひとりごちた。長い休みはまだ終っていなかったけれど、暇を持て余している楽俊は

大学にいた。知らせの鳥は来ていなかった。あの優しくて強い友人のことだ。きっと、

心配をかけまいとしての配慮なのだろう。

(でも、心配するぞ。やっぱり)

楽俊は無意識に眉根を寄せていた。こういう時、まだ学生の身の自分が恨めしい。

もっと彼女の役に立ちたかった。

大学に入りたかったのも、官吏の道を目指すのも、ひとえに彼女のためなのに。

(王宮には信頼の出来る官吏も増えたみてえだし。延王もついてるから、大丈夫なんだろうけど)

はぁ。と一つ、溜息がでた。

リアルタイムで様子を知ることが出来ない苦痛は、問題の渦中で受ける苦痛よりも辛い。

事後で報告されるのは、胸を掻き毟られるように焦燥感がつきまとう。

誰それが助けてくれて、などど聞くと嫉妬めいた気持ちなどもこみ上げて、自己嫌悪に陥る事も

しばしばだ。もう一つ、溜息をついたところで、名前を呼ばれて楽俊は振りむいた。

「おーい。楽俊!こっちだ。こっちだ」

ぶんぶんと手を振る人物を見つけて、楽俊は総毛立つ。

「えん……ッ、いや、えと」

先程、脳裏に浮かんでいた人物だった。

こんなところにいるはずのない、というより、雲海より下に来る事自体が一大事な人間がそこにいた。

「あの。ど…どうして!?」

「話は後だ。探したぞ。今日は人型だったんだな。見つからなかったわけだ」

相も変わらぬ強引で行動力のある王である。

「今日は、弓の練習をしていたので」

腕をつかまれて、半ば引き摺られながら楽俊は律儀に答えた。

「ああ、それな。聞いたぞ。馬も不得手だそうだな」

言いながら、何でもないぞ。そんなもの、と延王は闊達に笑う。

「でも、出来ねえと卒業出来ませんから」

「卒業出来なければうちに来い。仕事のひとつやふたつやみっつやよっつ、

いくらでも沸いて出てくるぞ」

「………………はぁ」

有難い申し出なのだろうが、礼を言う前に楽俊は呆れてしまった。延王の言葉に偽りはないだろう。

頼めば、本当にそうしてくれるかもしれない。けれど、それをしては顔向けできない人がいるのだ。

いや、楽俊が頼めば彼女もきっと喜んで受け入れて官吏に登用してくれるだろう。

しかし、それでは駄目なのだと自分でも分かっていた。

「自分の身くらいは守れないと。足手まといにはなりたくねえから」

午寮の街でも、容昌の街でも、何も出来ない自分が嫌だった。逃げて、と。下がっていて、と、

そういわれる度に憤りを感じていた。

傍にいて、守ってやりたかった。共においらも戦う、と言えればどんなに良かったことだろう。

「…………」

延王はちらりと振り返り、声を出さずににやりと笑った。

つまらない男の自尊心を笑われたのかもしれないし、楽俊が守らなくても陽子は大丈夫だと

笑われたのかもしれない。

建物の影に入ると、延王は高く指笛を鳴らした。もう顔なじみになった、たまととらが音もなく

ふわりと降り立った。

「では行くぞ」

「行くって、あの、どこへ?」

「慶だ。金波宮にな」

「って……陽子のところへですか?」

楽俊がとらの背に乗ったのを確認して、たまに騎乗した延王は空に飛んだ。心得たとらが

その後に続く。

「一体、何があったんです?」

並んで駆ける騎獣の上で、楽俊は訊ねた。顔に浮かんだ不安の色は隠しようもない。

「蝕があったのは知っているか?」

延王は応じた。核心からややずれた答え方をするのは、この人の悪いところだと思う。

「巧国と慶国をかすめたとは聞きましたけど」

「その蝕で、慶国の東端にある街の堤が切れたんだ。里は倒壊、地は水浸し。

あの一帯の田はしばらく使い物にならん。寒さも和らいだとはいえ、この冬空に家をなくした民は

放り出された。それで、陽子が落ち込んだ」

「でも、それは陽子の責任じゃねえでしょう」

淡々と語る延王の口調が陽子へ非難のように聞こえて、思わず楽俊は反論してしまっていた。

延王は苦笑したふうだった。

「俺たちはそう思うな。だが、陽子は違ったんだ。切れた堤は丁度修復工事の真っ最中だった。

もし、もっと早くに着工していたら堤は完成してこの被害もなかったのではないか、と」

「……………」

楽俊は俯いた。陽子なら、そう思うだろう。彼女は優しすぎる。王として得がたい資質だけれども、

きっと、それは苦しい。

「陽子があそこまで落ち込むのは和州の乱の後、なかったことでな。それで慶国の冢宰から

雁に依頼が来たんだ。楽俊を慶国に招くために手筈をつけてくれないか、と」

慶国の冢宰の名はよく知っていた。和州の乱の後、特に信頼している有能な人物だと

陽子の声で鳴く鳥は嬉しそうに語っていたからだ。

「でも、おいらが行っても陽子が元気になるとは……」

「その辺りは俺の知ったことではない。俺は依頼を果たすだけだ」

「…………」

楽俊は延王から視線を外し、じっと手の甲を見詰めた。細くて長い指は、労働を知る者の手ではない。

職が欲しかった。仕事がしたかった。雁でそれを叶えようと思った。

けれど、最後に選んだのは官吏への道。

「………あの、お願いがあるんですが」

「ん?」

延王は首を傾げる。

「急ぎなのは分かっているんですけど、ちょっと寄り道してもらえませんか?」

 

     *

     *

     *

 

久々に訪れた金波宮は、その主の状態が影響しているものか、以前来た時と感じが違って

どこか翳りがあって陰気だった。

出迎えてくれたのは女史になった祥瓊だった。

延王も一緒に来た事には驚いていたが、それにしてはその後の準備は妙に手際が良かった。

きっとよくあることなのだろう。

久闊を叙する余裕もなく、祥瓊は陽子の下に案内してくれた。

「陽子、どんな様子なんだ?」

「最悪ね」

長い廊下を進みながら、祥瓊は言い切った。

「本人は元気そうに見せるんだけど、カラ元気ってバレバレ。思いっきり悩んじゃえば

後は浮かび上がるだけなんでしょうけど、政務があるからそうもいかなくて」

「まぁ、官吏には威厳のあるようにみせとかなきゃなぁ」

「で、ずるずる悩み続けてるの。政務に支障があるわけじゃないけど。見てる方にしたら、ね」

「……心配なんだよなあ」

「そういうこと。それで、浩瀚様に頼んで楽俊に来てもらったってわけ」

「……………」

まかせろとも言えなかったし、何とかなると無責任なことも言えなかったから、楽俊は答えなかった。

内宮にゆくまでに何人かの官吏がじろじろと楽俊を見ていった。ネズミの姿でなかったのは

単なる偶然だったが、良かったと思う。まだ、全ての官吏が陽子に好意を持っているわけでも

ないのだろう。ネズミの姿で内宮に入れば、その後陽子がどう言われるか知れたものではない。

既に命じられていたのか、内宮に入る時は殆ど検査らしい検査もされず、警護の者は丁重に

遇してくれた。そこからやや歩いて一つの部屋の前に辿り着くと、祥瓊が室内に声をかけた。

「陽子。お客様よ」

「…………客?……誰?」

室内から洩れた声を聞いた瞬間、楽俊はどきりとした。懐かしい、陽子の声だった。

楽しかった事、嬉しかったことだけを淀みなく語りかけてくる鳥のものではない。

本当の、陽子の、声。

祥瓊が視線で楽俊を促した。それに肯き、室内に足を踏み入れる。

背後で祥瓊が去っていく衣擦れの音が響いた。

二人きり。

「……久しぶりだな。陽子」

出来るだけ落ち着いた声音で話かけた。陽子はぽかんと見つめてくる。

前にもこんなことがあったな、と苦笑する。

「どうした?」

「楽…俊………?」

「間違いなく、おいらは楽俊だ」

「だって、楽俊は雁の大学で勉強中じゃないか。どうして……」

「延王が連れて来て下さった。冢宰の浩瀚様が、お招き下さったからな」

陽子の顔には激しい疲労の色が滲んでいた。 体力よりも、気力を使い果たしてしまったのだろう。

政は激務だ。自分一人の責任だけを考えていればいい学生とは違う。

王の言動は、必ず多くの民を左右するのだから。

「疲れてるみてえだな」

その言葉に、陽子の表情が変わった。何故楽俊がここに招かれたのか、理解したのだ。

「……ごめん。楽俊にまで迷惑をかけて」

陽子は俯いた。握っている拳が白かった。

「皆にも心配をかけている。駄目だとはわかっているんだけど、考えずにはいられないんだ」

「蝕のことか?」

「………そのほかにも、色々」

官吏のこと、民のこと、国のこと。

「官吏は冢宰が上手くなさってるじゃねえか。民や国のことは十年二十年でなんとかなるものでも

ないだろ?」

「でも、だからといって民を殺したことを正当化できない。私がもっと早くになんとかさせていたら、

犠牲者は少なかったかもしれない」

「……陽子」

楽俊は小さく溜息をついた。

「陽子。陽子は、優しすぎる」

「私が?」

陽子は目を上げた。濡れたような瞳が、玉のように綺麗だった。

「私なんかより、楽俊の方が優しい……」

「そんなことを言ってるんじゃねえって」

陽子の言葉に少し照れて、楽俊は耳の後ろを掻いた。

「そうじゃなくて、国のこと、全部背負い込むなって言ってるんだ」

「…………」

楽俊は一歩進みだして、陽子の肩に触れた。

小さな薄い体。その身に重過ぎる一国の期待。

「おいら、ここに来る前にちょっと寄り道してきた。蝕のあったところだ。陽子は、見たか?」

「見てない。行きたかったけど、その時間もなくて……」

しゅんと項垂れる陽子の肩をぽんぽんと叩きながら、楽俊は続けた。

「見てたら、落ち込んでなかったろうな。皆、お前に感謝してたぞ」

「……え?」

陽子は目を瞬かせる。

「堤、王師を出してすぐに修復させたんだって? 食料をすぐに送らせて、住居も作らせた。

田はしばらく使い物にならねえから、今年の租税は免除だってな。」

「だって、そうしなきゃ、大変じゃないか。私は当たり前のことを指示しただけで……」

「王様ってヤツは特別なことはできねえんだ。当たり前の事を、当たり前にするだけだ。

蝕が起こって、犠牲者が出たのは仕方なかった。蝕が陽子のせいだってんならともかく、そうじゃねえ。

そうなると、事後処理が陽子のしなければならない仕事だな。陽子は、それをちゃんとやった。

だから民は喜ぶ。いいか。しなかった仕事と、出来ない仕事を混同しちゃならねぇ。

それは、陽子を支えてくれる人達に対しても失礼だ。そのこと、分かってるか?」

「あ………」

陽子は額に手を当てた。陽子が悩むのと同じくらい、官吏達も悩んでいたのだ。

陽子だけがうじうじと考えているのは、その人達を侮辱する行為だろう。

「工事は収穫の後に始まった。当然だな。皆田んぼの仕事がある。だから仕事が少ない冬にやった。

工事は皆が望んでいたことだ。誰も陽子を恨んじゃいねえ。もしもっと早く着工していたらどうだ?

収穫も重なって大変だったんじゃねえのかな?工事の時期についても、それを奏上した人がいる

だろう? 陽子がもっと早ければ、なんて言ってたらその人が辛くなる。

済んでしまったことについて思い煩うのは良くねえ。誰かに責任があったのならともかく、

そうじゃねえんだから。陽子が苦しんでいたら、他の誰かも苦しまなくちゃならねえんだぞ」

「楽俊」

陽子は溜息を吐くのと一緒に名前を呼んだ。楽俊は口を閉ざす。

「ごめん、楽俊。私は、本当に愚かだ」

陽子の手が伸びて、楽俊の着ている袍を掴んだ。

「私は、何も分かってなくて……」

「もう分かったな?分かったんなら、いいじゃねえか」

「………ごめん……」

「おいらじゃなくて、他の皆さんに謝らねえとな。心配してるぞ」

「うん…」

俯いた頬に、玻璃か水晶のように涙が流れていった。

「王様は、大変だな」

「私だけが大変なんじゃない。王も農民も、大変なことに変わりはないんだ」

「……そうだな」

楽俊は身をかがめた。

陽子の頬を伝う、綺麗な宝玉の欠片を飲み込んだ。

「…………………ら、らら、楽俊ッ?」

陽子は動かなかった。硬直して、動けなかったのだ。

ほんの一瞬の抱擁の後、楽俊はそっぽを向いた。顔が熱い。

「延王もいらしてる。御挨拶した方が、よくねえか?」

「う、う、うん。うん。行かなくちゃ……」

乱れてもいない衣服を整えて、陽子はわたわたと立ち上がった。

楽俊に背を向けた陽子の耳が、桜色に染まっている。

「ら、楽俊!!」

「ん? 何だ?」

突然勢いよく振り返った陽子は、縋るような視線で楽俊を見た。

「し、しばらく慶にいるのかな。すぐ雁に戻る?」

「いや、大学はまだ始まってねえから、すぐ戻らなきゃならねえってことはないけど」

「そ、そうか。じゃあ、延王にお願いしてみる。たまかとらをどちらか貸して下さいって」

「ああ」

陽子は歩き出した。右手と右足が同時に出ている。

思わず苦笑しながら、楽俊は後に続いた。

王になることを怖れていた陽子に、その道を指し示したのは自分だった。

陽子なら良い王になれると思った。

きっと、民は幸せになれると思った。

だから、その背中を押してやった。

自分の境遇から、陽子に期待していたのも事実だ。半獣の自分を受け入れてくれる国を求めて。

ただ、それ以上に。

見てみたかった。陽子が思い描く、まほろばを。

陽子がどんな国を作るのか見てみたい。

そして、その国を共に育て、守り、糧となりたい。

その道はまだ遠く、険しいものであったけれど。

「おう、陽子。久しぶりだな」

「延王もお元気そうで」

延王が通されていた部屋に入ったとき、陽子の顔に笑みが戻っていた。

その場にいた何人かがホッとした様子で、陽子に丁寧に頭を下げた。

後ろにいた楽俊へ向けられたものもあったのは、気のせいではないだろう。

「足手まといなんかじゃ、ないだろう?」

「……は?」

「いや、こっちの話で」

延王が楽俊を指差す。楽俊は一瞬きょとんとし、そして思い当たって、狼狽した。

「何の話です?」

「いやな、楽俊がここに来る時にだな」

「あ、え、延王ッ!」

延王はくすりと笑うと、口を閉ざした。

「ま、人には向き不向きがあるという話だ」

「はぁ………」

首を傾げる陽子に、人の悪い笑みを浮かべて延王は悠然と座りなおす。

二人を見つめながら、楽俊は遠い未来を思う。

いつかこの国が豊かになった光景を。

そこは陽子が作ったまほろば。

緑なす豊穣。凪いだ水面に深い恩寵。悠久を渡る穏やかな空気を。

そしてそこは、自分が求める理想郷。

「陽子」

「うん?」

陽子はきららかに笑う。

その強さと、弱さを。

「おいら、ずっと見てるから。心配すんな」

「…………」

陽子は二度瞬きをした。そして、ふっくりと微笑んだ。

「ありがとう。楽俊…………」

 

いつか必ず来る、未来を約して………。

 

 

 

 

 

 

 

了.

2001.9.1.


すみません。砂吐きますよね。ざーーッ。(^^;
政って大変だと思うんです。でもトップが悩むと駄目なんですよね。
そのことがまたツライんだけど、楽俊なら慰めてあげれるかな、と思って。
完全に脇役になっちゃって延王と祥瓊ファンの方はごめんなさい。(苦笑)

この作品は「恋文」に収録されました。一番漫画化しやすいんじゃないかと
思っていただけに、それまでの本の収録作品に漫画でもSSでもひっかからなかったというのは
後から思えば意外でした。あと、挿絵はキスシーンになるのかな? と思っていましたが、
(挿絵の箇所は、いつも皐妃さんにお任せしていたのです。 笑)
二人が顔を合わせるシーンだったのがまた興味深かったです。
山田章博画伯のタッチで描かれたイラストは大変麗しくて、あれだけで500円の
価値はあった、とわたしは思うのですが。皆様はいかがでしたか? (*^ー^*)



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