金波宮は静かだった。

先日までの賑やかでなくともどこか浮き足立っていた空気は霞のように消えて、

今は何もかもが日常を取り戻し、あるべき場所に落ち着こうとしている。

「新しい年、かぁ」

ふと露台の方から柔らかい落ち着いた声が聞こえた。

この国の冢宰である浩瀚は、部屋を覗き込んで、客人の姿を求めた。

春節の祭りは終った。本来過ぎ行く日々に区切りなどないのだけれど、どこか厳粛な気持ちで

それを受け止める自分がいる。

きちんと袍を着込んだ青年が露台に凭れて、ぼんやりと沈んでいく太陽を見つめていた。

彼が巧にいた頃は、季節の伏し目なんてなんとも思わなかっただろう。

否、何かを思うことも出来なかったのだろう。

今日は昨日の続きで、明日に僅かな変化を期待することも出来ない。

望まぬ怠惰な生活がどれほどの苦痛かは、経験した者でなければ分からない。

そしてそこから抜け出せた喜びもまた、理解出来る者は少ないだろう。

「陽子、ありがとうな……」

微かに聞こえたその呟きに、浩瀚はそっと笑みを漏らした。年末年始をはさんだ長い休暇を、

楽俊はこの金波宮で過ごしていた。

陽子から誘いがあったのは勿論のことだが、楽俊も慶に用事があったためだ。

金色の最後の光を残して夕陽が完全に隠れようとする。

楽俊が眩しさに目を細める。

「楽俊殿」

驚かさないように低く穏やかに浩瀚は呼びかけた。

くるりと楽俊は振り返り。

振り返って、姿を認めて、目を見開いた。

「浩瀚様………!」

楽俊は慌てて拱手の礼をとった。

伏礼しかけて留まったのは、寸前にこの国では立礼が普通だと思い至ったからだろう。

浩瀚は苦笑した。

「そんなに畏まらないで下さい。楽俊殿は主上の命の恩人です。ということは、慶の官吏にとっても

国の恩人ですからね」

実は会う度にそう言っているものの、楽俊が態度を変えることはない。

礼に関して、この若者はどうしてここまで、というくらい細心の注意を払っていた。

それは生まれによるものか、育ちによるものか。

あるいは、両方なのかもしれない。

「皆私の前だときちんとするようなので困惑しているんですよ。

そんなに私は厳しいですか? 台輔と比べればずっと気さくだと思うんですが」

楽俊は微苦笑しながら顔を上げ、浩瀚に席を勧めた。

「景台輔と比べるのがそもそも間違いでしょう」

と、笑いを噛み殺し、楽俊は応じる。

「わざわざお越しくださらなくても、お呼び下さればまいりましたのに。おいら……いや、私に

何か御用ですか?」

浩瀚は肯定の代わりに微笑み、顔が映りそうなほど磨かれた卓子に二人は向かい合って座った。

「慶の歴史を調べていると聞いたのですが」

「あ、ええ」

楽俊は頷いた。以前、楽俊は課題論文のテーマに慶の歴史を選んだ。

その際遠甫にも教授を願うという熱心ぶりで資料を集めた。

そして、今回も楽俊はこの休暇を利用して、慶史に取り組んでいたのである。

「慶の歴史はどうでしたか?」

浩瀚の問いに、楽俊は首を傾げた。そういう動作はまだ幼さが残っていて奇妙に老成した部分とは

対照的だ。

「ええと、それは、ただおいらの論文をお話すればいいんでしょうか? それとも、浩瀚様が何かの

仕事の参考にされるんですか?」

その返答に、浩瀚は満足して笑った。

自分の意図に対して的確に反応出来る楽俊はやはり俊英だと思う。

遠甫もそうだが、たわいない話の中で様々ないくつもの試験を出すのは陰謀家の悪癖だ。

試験というのでないならば、腹の探り合いを楽しむ傾向、と言い換えてもいい。

全く、お互いにどこで加点減点されているやら、知れたものではない。

「楽俊殿は、慶の官吏になりたいのだと、おっしゃっているでしょう?」

「はい」

楽俊は即答した。

「あの、それが何か?」

楽俊は不安な様子で問い返す。

わざわざそれを確認する浩瀚に、不可解というよりも不安を感じたのだろう。

それを察し、浩瀚はちょっと困ったように微笑んだ。

幸か不幸か、この青年は聡すぎる。

もう少し遠回りしてから本題に入るつもりだったのに、これでは本題に入らざるを得なかった。

楽俊ははぐらかしたり、曖昧な返答をすることがない。

それはとても美点ではあるけれど、もう少し卑怯にならなくてはツライだろうとも思う。

話を逸らせる事は出来たが、あえてそれはせず。

静かな穏やかな声で、浩瀚は爆弾を投げつけた。

「私は、楽俊殿には官吏になって欲しくないと思っているんですよ」

「……………………」

ひゅっ、と風がもれるような音が楽俊の喉から洩れた。

半獣の青年は凝然と浩瀚を見つめる。

その貌に感情の嵐が一瞬だけ、よぎる。

返答は、浩瀚が予測していたよりもずっと早く、そして正確だった。

「おいらが、陽子の命の恩人だからですね?」

衝撃を隠し切れず、声は上擦ってかすれている。

蒼褪めた顔の楽俊を見つめながら、

「気付いていましたか」

落ち着いて浩瀚は答えた。

「…………陽子の、手伝いをしたいんです」

「その気持ちは、分かります」

浩瀚は楽俊の言葉を正確に理解している。

楽俊は項垂れた。

そう。

楽俊は、陽子を助けてやりたいのだろう。

浩瀚もそれを疑う気持ちは欠片も無い。

ただ、それは「陽子の手伝いをしたい」のであって、「慶のために何かをしたい」のではなかった。

「主上が慶のために何かをしたいと思い、楽俊殿がそれを助けたいと思う。

楽俊殿の想いは慶のためになるでしょう。それは今は小さな違いだからです。

けれど、いずれ違いが出て来る。それは、やがては大きな亀裂になる」

「…………………」

楽俊は顔を上げない。

浩瀚は記憶を過去へと遡らせる。

脳裏に一人の人物の顔が浮かび上がる。

その人は、国の幸せと、自分の幸せとを混同した。

あまりにも善良で、あまりにも優しすぎた人だった。

「私も、かつて同じ過ちを犯しました。

私の国を良くしたいという気持ちは、慶国ではなく、麦州だけに留まってしまった」

呟きに、楽俊が目を上げた。

慶は短命な王朝が続いていた。

国を良くしたい、という理想があった。

理想のために、民草の苗床になりたいと願って、麦州侯に封じられ、その願いが叶えられたと

信じていた。

なのに。

予王が政治を官吏にまかせて逃げているという話を聞いたのは、その、すぐ後だった。

「私が真に国のためを思うのならば、その時、無理矢理にでも予王に会い、信任を得て

王宮に乗り込むべきでした。けれども、私はそれを距離のせいにした。

距離のせいにして、逃げたのです」

「浩瀚様………」

楽俊が痛みを堪えた瞳を揺らめかせた。

予王は天命を失った。

景麒は病み、民は天災、それに続く飢え、病気、そして苛酷な役人達によって殺されていった。

やがて予王への怨嗟の声が地に満ち、挙兵を促す者まで出て来る。

その時になって、ようやく己の間違いに気が付いた。

国のためになることを為すということ。

理想通りの官吏になるということ。

その二つを、完全に混同していたのだ、と。

「官吏の社会には派閥があります。主上の寵愛は国の乱れにもなります。

官吏の嫉妬は、仙籍にあるものも簡単に殺します」

浩瀚の言葉に、楽俊は神妙に頷いた。

「人間の心は愚かで、哀しいものです。

優しい言葉だけでは生きていけない。憎しみの心が傷を癒すこともある」

ほんの一瞬、目が逸らされる。

彼もまた、己の内にある憎しみを知っている。

「私は、何より楽俊殿の政策がその嫉妬によって駄目にされるのが怖いのですよ」

浩瀚が口を閉ざすと、楽俊は目を伏せた。

「浩瀚様は、官吏の道を諦めたおいらにどうしろと?」

低く、しかし重苦しく、楽俊は問うた。

浩瀚の瞳を真正面から受け止め、憎しみも悲しみも無い、ただひどく疲れたような顔で。

官吏という道が、彼に初めて出来た目標だということを、浩瀚は知っていた。

強制されるでもなく、ただ流されるだけでもなく。

陽子と出会って初めて選び取り、ようやく手にした目標だということを。

「私は、楽俊殿には大公になって欲しいのですよ」

告げた瞬間、楽俊の体がびくりと震えた。

言葉を反芻するかのように呆然と浩瀚を見返し、そして目を瞬かせる。

「え……? あの?」

「いきなり大公で困るなら、太傅でも太保でもいいですが。

つまり実権を持たず、主上の傍にある地位です。これなら私も楽俊殿に嫉妬せずにすむ」

浩瀚が笑いかけると、楽俊は表情を選択し損なって笑顔半分、困った顔半分、といった顔になった。

浩瀚は微笑み、立ち上がる。

楽俊は意表を付かれたようで、慌てて同じく立ち上がった。

「この話は私だけの考えです。主上はご存知ではありません。

どうするかは楽俊殿のお気持ち次第。どちらを選ばれたとしても、私は私の立場で楽俊殿を

応援するつもりです」

楽俊は微妙に口元を引き締め、そしてきちりと姿勢を正すと拱手の礼をとった。

そして顔を上げると、研ぎ澄まされた刃にも似た、真剣な眼差しで浩瀚を見つめた。

「おいらは、陽子さえよければ、慶の国も民もどうなってもいいと思いました。

今も、気持ちは変わりません。おいらにとって、国なんて意味がないんです。

特定の人以外は、誰がどうなっても構わない」

浩瀚は頷く。

人の心は哀れで、悲しいから。

楽俊を否定するつもりはなかった。

けれど、そこで楽俊は闊達な顔に人好きのする笑顔を浮かべて、ほっと力を抜いた。

「でも、おいらは陽子の国が好きだから」

浩瀚は、息を飲んだ。

「…………そうですね」

目を閉じる。

その一瞬の暗闇に、予王の姿が映った。

彼女に、特別な感情があったわけではない。

善良で、優しく、そして凡庸な人だった。

ただ、嫌いではなかったと思う。

国を豊かにしたかった。

民の暮らしを楽にしたかった。

この国のために、この慶のために、と思いつづけて。

この国を好きだ、と。思ったことがあっただろうか…?

「おいら、陽子が好きだから。陽子のことを信じています。

陽子は、きっと間違えない。

だから、おいらは陽子のことだけを考えてても大丈夫だと思います」

それが救いなのだ、と思った。

浩瀚は口角を上げる。

「私も、主上が好きですよ」

楽俊も破顔する。

そこへ。

「あれ!楽俊、浩瀚!こんなところに二人ともいたのか!!」

不意の声に目をやると、赤い髪の少女がにこにこ笑いながら駆け寄った。

「陽子」

「二人でどうした?」

浩瀚と楽俊はお互いに顔を見合わせ、その瞳の中に秘密を押し込め合う。

「うん、夕焼けを見ていたんだ」

「夕焼け?」

楽俊の言葉に窓辺を見遣った陽子は。

そこに夜の星を見つけて、苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

 

2002.1.25.


楽俊が慶の官吏になってくれるのがドリー夢なくせして
何故私はこういう夢のないネタをかくんでしょうね?(苦笑)
楽俊が官吏になったという話を想像してみた時、どうしても
その中に他の官吏達の嫉妬があるんですよ。
で、楽俊を大公にプッシュしてみたんですが。いかがでしょうか。(^^;



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