・・・・・・・・・・・・・・どうにか、しなくては。



もう、何度目かも分からない問いを、楽俊は呟いた。

それは、先刻より飽きることなく続いていた。

いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。

それは、充分に分かっている。

でも。

へたりこんだ床はぐっしょりと濡れている。

雨に打たれ、体温は冷え切って、清潔で乾いた温かい寝床が必要であることぐらい

子供だって分かる。

でも。

あちこちの破れ目から血が滲み、特に貫かれた右手などから推測するに、他にも急ぎ

手当てを必要とする傷があるかもしれない。

でも!!

分かってはいるものの、楽俊の体は強張って動かなかった。

その視線の先にいる彼・・・・・・・・否、『彼女』は気を失っているようで、先程まであった楽俊の

支えを失ってぐったりと床に崩れ落ちた姿勢を元に戻すこともないまま、身じろぎ一つ

しなかった。

外はまだ細い糸を撒くように、雨が降っている。

濡れた体をぬぐおうと持ってきた布を握り締めたまま、

楽俊は再度、ひとりごちる。



・・・・・・・・・・・・・・どうにか、しなくては。



そろそろと立ち上がると背中と後頭部がずきずき痛んだ。

先刻、彼女の濡れた服を脱がそうとして誤解に気付き、あまりに驚いて飛びずさった時に

強く壁に打ち付けてしまったためだった。

おそるおそる少女の傍に戻る。

細い呼吸が先程よりがわずかに乱れている。呼吸がしにくいのだろう。

楽俊はもう一度その体を支えなおし、息がしやすい姿勢をとらせる。

頭の位置を固定しようとふと額に触れてみて、楽俊は顔を顰める。

熱がある。

もはや、躊躇ってはいられない状態だった。

楽俊はぎゅっと目を閉じる。

覚悟を、決める。

布を握り込んだ手が震える。

とりあえず、比較的安全なところから処置をしようと湿ってうねる髪を布で包んだ。

軽く叩いて水気と汚れをとり、乾くまでまとめておくことにする。

次に綺麗に顔を拭いて、ぴたりと手が止まった。

汚泥の下からはっとするほど美しい容貌が現れたのだ。

よくよく見れば、その骨格は女性のもので、濡れて張り付いた衣服にも女性特有の

まろみがある。

顔が紅潮するのを自覚するのと同時に、思わず、情けなさに溜息が出た。

この辺りで一番の秀才と自負していて、そのくせ男女の区別もつかなかったのか。

・・・・・・・なんて迂闊だったんだろ・・・・・。

苛立たしい気持ちと、情けなさと、気恥ずかしさと義務感や責任感などがぐちゃぐちゃに

混ざり合って頭の中が沸騰したようにぐらぐらと煮え立ち、眩暈がする。

すらりと伸びる四肢の汚れをぬぐって、特に酷い右手の手当てをする。

後はもう、自棄だった

布を被せ、触れないように全神経を総動員した状態で、だーーーっと、服を脱がせ、着せる。

怪我をしているのかいないのかも分からない。

汚れを流すことも出来ない。

ただ、脱がせた衣服を確認したところではどこにも怪我をした様子はないので、

一抹の不安を残しつつ、大丈夫だろうと思い込むことにした。

少女を臥牀に寝かせ、衣服をまとめて洗濯籠に放り込み、部屋の掃除をして、

ふと桶の水鏡を覗き込むと、その中には疲労困憊した蒼白な自分の顔が映っていた。



*

*

*



表から足音が聞こえて、ついに来た、と楽俊は戦慄に顔を沈めた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

板戸が開いて、母が一瞬詰まったのが分かった。

普段ならただいま、あー疲れたなどと言うはずのところだったが、

「楽俊」

母は名を呼んだ。

それが、彼女の混乱振りを如実に表していた。

楽俊は顔をあげる。

「母ちゃん」

おそるおそる振り返る。隠し切れない動揺が鬚に現れて、さわさわとそよぐ。

それでもまだ鼠姿なだけ、いくらかマシだった。

現に、陽子という海客の少女は気付いていない。

ただし。母には一目瞭然の狼狽振りだったろう。

なにしろ昔からどんな内緒事も、母の前には秘密にしおおせたことがないのだ。

「妙なお客を拾っちまったぞ」

「お客って」

母は陽子と自分を見くらべる。

「おまえ、この娘さん、どうしたんだい」

その目には確かに、いつの間にかこっそりと息子が恋人を作り、自分が留守の間に

家に連れ込んできていた!という、母親の驚愕と疑惑がぎちぎちにたわめられていた。

「林で拾った。こないだの槇県の蝕で、あっちから流されてきたんだと」

まぁ、と母は呟いた。

そのままじっと見つめてくる。嘘か真かを見抜こうとするかのように。

堅い表情が一瞬かすめたが、とりあえず少女には何の罪もないと思ったのだろう。

緊張し、身構えていた陽子に母は笑みを向けた。

「・・・・・・そりゃ、たいへんだったろうねえ」

そうして、もう一度振り返る。

「なんだい、おまえ。だったら呼び戻してくれればよかったのに。娘さんの世話がおまえに

ちゃんとできたのかい」

・・・・・・・・・・・・鋭い。

「ちゃんとできたさ」

楽俊は極力軽く応じた。

結局、あの後意識不明のまま熱を出した陽子の着替えを四回もしなければならなかった。

それがどれほどの難行だったか、金を積まれたって語りたいとは思わない。

「どうだかねえ」

母は意地の悪い笑みを楽俊にだけ分かるように閃かせ、陽子にはにっこりと微笑む。



・・・・・・・・・・・・・・どうにか、しなくては。



母の調子にすっかり巻き込まれてしまったことをそら恐ろしく感じながら、

楽俊は引き攣った笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

おわる。

2003.6.23.



張家の嫁姑戦争も結構面白かったんじゃないかな〜?
なんて思って書いてみました。(笑) 空白の多い張家の滞在期間。
何があったのか、とても興味深いですよねvv(笑) 楽俊母、大好きですv
自分が留守中に息子が女の子を引き入れてて、あれで済ませちゃう母ってある意味凄いよ!?(笑)
そして 楽俊にしか聞こえないように、お前が婚姻したらこんな感じかねえ、なんて
意味ありげな事を言ったりしてそう。(にやり)  で、
それを聞いた楽俊が、お茶を飲みそこねてむせるのは言うまでもない、と。(爆笑)

漫画化においては、陽子の色気っぷりと周章する楽俊がとても微笑ましく。
(お母さんがたとえ楳津風でも)、張家のほのぼのあたたかい雰囲気が優しくて
食中り必至な『雨』とのコントラストがいい味を出しておりました。(^^)
食中り必至な収録作品のチョイスセンスには、毎度のことながら感嘆するばかりですよ、ええ。
ね? 皐妃さん?(にっこり)


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