書 架

 

緋魚

 

 

張のことは、彼が入学する前から話題になっていた。

二十代前半での入学も珍しい事なのに、首席で半獣でおまけに雁の民ではないときている。

張は入学前から、既に学内でも三本の指に入る有名人だった。

だが、入学後、張は三本の指に入る有名人ではなくなった。

張は、学内で一番の有名人になっていた。



入学式。意地の悪い先輩達の痛いくらいの視線の集中砲火の中、現れたのは灰茶色の

鼠の半獣だった。

今思い返しても、あの時の空気を鳴賢は忘れることが出来ない。

彼の姿を見た瞬間、その場にいた人々の視線からさぁっと熱気が引いて。

その後に訪れたのは戸惑いと、蔑視と、無視だった。

全身でそれを感じてゾクリと背筋を震わせながら、鳴賢は皆と同じように無視しようとして

失敗し、何故か、狼狽えていた。

理由なんて分からない。

ただ、ひどく張が羨ましく、妬ましく、苛立った。

そうして、そのままずっと張の姿から目を離せない自分に気付いて鳴賢は舌打ちし、

満身の力を込めて、無理矢理顔を背けたのだった。



それから、鳴賢はやたらと張のことが気になる自分を自覚した。

講義中や、ふとすれ違った廊下で、張の姿を目で追ってしまう。

鳴賢はその度に舌打ちを堪えなければならなかった。

いっそ首席を鼻にかけるのならば、その傲慢さを軽蔑出来ようものを。

けれどいつも張は大人しく、ひっそりとその存在を埋没させようとしていた。

よほどの鈍感なのだろうかと疑ってもみたが、やがて、鳴賢はある事に気が付いた。

気が付きたくもなかったけれど。

張は、いつも一人だった。

何かの用事で最低限、誰かと話すことはあるけれど、特定の誰かと一緒にいることは

なかった。賑やかに皆が笑いさざめく講義の合間や講義の後は、張はそっと一人で図書府へ

消え、そして静かに書籍を読み耽っているのだった。

どうということはないはずだった。ただ、張は一人でいるだけ。

なのに何故かそんな黄昏の、輪郭のぼやけた張の影を見つける度、鳴賢は苛々と唇を噛み

締めながら心の中で呟かずにはいられなかった。

(首席は卒業出来ないんだぜ、十代で入学して、卒業したヤツがいないみたいに・・・・・・・!)



それは、入学式から一ヶ月ほどが過ぎた頃だったろうか。

鳴賢は課題に必要な資料を探しに図書府にやって来て、黄昏に染まる壁に灰茶色の獣の

姿を無意識に探し求めながら奥の書架へと進んでいた。

今日はいないのか、と。落胆半分、安堵が半分の自身でも訳の分からぬ複雑な気持ちを

抱え、鳴賢はするすると導かれるように一つの棚に向かう。

と、そこに。

灰茶色の鼠の姿を見つけて、鳴賢は飛び退いていた。

何故飛び退いたのかは、分からない。傍から見ればかなり妙な行動であり、過剰な反応

だっただろうと思う。しかし、幸い周囲に人影はなく、張が気付いた様子もなかった。

こそりと窺い見遣れば張はなにやら必死にぷるぷると手を伸ばし、本を取ろうとしていた。

どうやらあと少し、というところまでは届くものの、背表紙を掴もうとすると滑るのだ。

張はきょろきょろと辺りを見回した。生憎、踏み台となるようなものは何もない。

溜息をつき、哀しそうに見上げている張の様子に。

まず、体が動いていた。

「・・・・・・・・これ?」

自分自身の行動ながら、訳が分からず、ただ本を差し出し、鳴賢はそう言っていた。

黒く濡れた大きな瞳の中に、自分の姿が映っていた。

張は一呼吸詰まってから、こくりと頷き、

「・・・・・・・・・どうも、ありがとう・・・・」

本を受け取って、丁寧にお辞儀した。

「踏み台がないと、大変だな」

張は僅かに目を細めた。一瞬、しまった、と思ったが、

「うん、おいら、これ以上背が伸びねぇみたいで」

ふっくりと頬が持ち上がったところを見ると、どうやら笑ったらしかった。

「ふぅん?」

なんとなくそのまま立ち去り難く、鳴賢は続ける。

「その本、面白いのか?」

「・・・・・・・・・・・・」

そのたわいもない質問に張の目がゆっくりと見開かれ、鳴賢は慌てて言葉を重ねた。

「あ、いや。別に、面白いなら張の後に読もうかと思っただけ」

張の表情の乏しく見える鼠の顔に、今度ははっきりとした笑みが浮かんだ。

「うん、面白れぇよ。おいらの好きな本なんだ。おいらは何度も読んでるから、先に」

本を差し出されて鳴賢は頷き、受け取った。

「おいら、楽俊っていう。姓名は張清・・・・」

「知ってる。お前、学内で一番の有名人だからな」

鳴賢は苦笑した。まさかずっと監視していましたとは言えない。

「俺は鳴賢って呼ばれてる。よろしくな」

手を伸ばすと、楽俊はちょっと驚いたような顔をした。

それから、照れたように笑って、

「よろしく鳴賢。本当に、ありがとうな」

小さな前肢を差し出した。



「・・・・で、仲良くなってしまったのか。卒業出来ない伝説の者同士で」

蛛枕がくすりと笑った。

「・・・・煩い。そんなもの、俺が覆してやるって言ってんだろ」

本の頁を捲りながら、鳴賢は憮然と応える。

楽俊が譲ってくれた本は、確かに面白かった。借りた後一気に読み進めてしまい、

もう最終章にまで来ていた。

「なんかさ、俺、楽俊から感謝されて、その心根の清さも含めて尊敬するしかないかな、って

呆れたというか、諦めたというか」

鳴賢はこめかみを押さえる。

最後に言った楽俊の「ありがとう」の意味を、正確に把握出来てしまった己が恨めしい。

これではまるで「いいひと」ではないか。決してそんな気はないというのに。

「そうか」

そんな鳴賢の気持ちをどこまで察したか、蛛枕は穏やかな表情のまま応じる。

「まぁ、安心したよ」

「何が」

ぶっきらぼうに蛛枕を睨むと、蛛枕は口の端を片方持ち上げ、

「袖を引く手間が省けたってことが、さ」

蛛枕はそう言って、鳴賢の不貞腐れた顔を見遣り、声を出さずに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

了.

 

2003.6.27.


 

茅野むぎ様の『序幕』へのオマージュSSです。
むぎ様の作品はシャープでクリアで、例えるならば月明かりに照らされたダイヤのよう。
精緻でさりげなくも高度な技巧が散りばめられていて、緋魚はいつも感嘆してしまうのです。
とりわけむぎ様の蛛枕を拝見すると、いつもその奥深さに胸打たれるのです。

その後『書架』は皐妃さんの漫画化によって、鳴賢をより前面に押し出した作品となりましたが、
雁国の豊かさと繁栄の中で悩み傷つき、成長していく一人の若者の姿を見出せることは
皐妃さんの類稀なる表現力と才能があって初めて成しえることだと思います。
鳴賢以上に、漫画化に苦悩した創作人二人のことはもはや思い出すだに恐怖する事実ですが。
(入学式の資料と膨大な群集に悩まされたことも、まぁ、いい思い出ですよね、皐妃さん・・・・・。(震笑))

漫画の雰囲気を残すために「ぷるぷる楽俊」は削除しようかと思いましたが、
まぁ、当初の小説との違いを楽しんでもらうのも一興かと、残しておきました。(笑)





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