夜風を吸いにテラスに出た。雲海を見下ろせば白い波が高く打ち寄せる。

静かな瞳で楽俊はそれを見つめる。波の間に間によみがえる声。

……楽俊、海がある! と。

思い出して、楽俊の口元が綻んだ。子供のように目を瞠って声をあげた彼女。

彼女は海客。

異世界からの客人は、当然のことながら何も知らなかったから。

知識を与えてやった。

進むべき先に導いてやった。

他の誰よりもただひたすらに。

……荒んだ心に優しさの潤いを注ぎ込んで。

驕っていたとしか言い様がない。彼女を助けるのは自分だと、

まるで使命を帯びたかのように思っていたのだから。

私は人ではないのだ、と笑った彼女。

彼女は果たして気付いていたのだろうか。

その笑顔が泣き出しそうに見えたのだという事を。

咎めた楽俊の、言葉にならなかった本当の気持ちを。

ただの海客として会いたかった、と思う。

彼女が慶の王だと知った瞬間、襲ったものは絶望的な喪失感だった。

ゆっくりと彼女に説明しながら、同時に自分を納得させなければならなかった。

心の嵐は容易には治まらなくて。

伝えたくない。

ずっと旅をしたい。

けれど慶の民が。

彼女の国が。

………………おいらは一介の半獣だ。

………………神の世界のことはわからない。

神の世界には入れないのだ。

そんな人を、この自分が助けてやるだとか、守ってやるだとか。

なんとみじめで哀れな愚かしいネズミ!!

だから安易に遠ざかろうとした。お前は遠い人なのだと言った。

遠くに追いやって逃げようとしたのは自分自身。

でなければ、心が現実を否定してしまう。きっと手離せなくなる。

きっと独占したくなる。

なのに、彼女はその逃亡を許さなかった。

お互いの間にあるその距離だけを指し示した。

逃げられない。

けれど、この手の中に入れることも叶わない。

恐ろしかった。その後すぐに役所に届けたのも、

己がその事実を握り潰すのを怖れたため。

彼女が微笑んでくれる度、ずっと心の中で己に言い聞かせた。

………お前は半獣。ただの半獣なのだ。と。

 

ひときわ高い波が来て、潮の匂いが空気に混じった。

「楽俊?」

空気が乱れて、背後から聞き慣れた声がした。

振り返れば、美しい緋色の髪の少女。

初めて会った時はもう少し黒かった。ただ、見つめる翠の瞳は変わらない。

かるく尻尾をあげて応じた。

今朝、思い切ってネズミの姿で延王の前に出た。

延王も延麒も僅かに目を見開いたが、それ以上は何も言わなかった。

それが出来たのは、彼女のおかげ。

「また、寝られない?」

軽く微笑んで彼女は問う。

「いろいろと考えることがあってな」

「考えること?」

楽俊は大きくうなずいた。

「どうやって陽子の気を変えようか、とか」

彼女はただ苦笑した。けれど、楽俊にとっては苦笑だけではすまないのだ。

陽子が王にならなければどうなるのか。

契約は済まされた。景麒の生死は陽子の生死に関わる。そして、

おそらく何もしなくても、何もしないというその事自体が失道につながるのだろう。

畢竟、陽子が生き続けるためには、もう王になるより他にないのだ。

昨夜と同じように陽子は隣に並んだ。手摺にもたれて雲海を見下ろす。

どうして海客は海から来るのだろうと、楽俊はぼんやり思った。

答えの出ようはずもない。

「ひとつ、聞いてもいい?」

「なんだ?」

「なぜ、わたしを王にしたい?」

「王にしたいんじゃねぇぞ。陽子は王だ。もう麒麟に選ばれてるんだからな。

なのに、玉座を捨てようとしている。だから止めたいと思ってるだけだ。

王が国を見捨てると、民も王も不幸になる」

本当は、慶の国も民も、どうなっても構わない。

陽子を失いたくないのだと。心の中で付け足した。

けれど、今はそれを言う事は出来なかった。そう、彼女は王であり、

自分はまだ一介の半獣に過ぎないのだから。

卑屈だった自分。

半獣の殻から抜け出せなかった自分。

一介の半獣という言葉に甘えきっていた自分。

職が欲しかった。一人前に扱って欲しかった。

雁に来れば、それが叶うと思っていた。このままいけば間違いなく叶う夢。

けれど、彼女に会って増えた、もう一つの願い。

…………陽子の傍に在るにはどうすればいい?

大きな責任に竦む陽子を、今の楽俊は助けてやれない。

憤ろしいくらい悔しいけれど、それはどうやっても無理な望み。

例え陽子の気持ちだけで官吏に登用されたとしても、他の者が黙ってはいまい。

誰もが納得するだけの能力を。

誰もが陽子の傍にあることを認めるだけの存在に。

そうすることが出来たなら。

この心の奥底にしまわれた本当の言葉を、口にする日も来るだろうか。

だから、陽子。

王になれ。

お願いだから、命は惜しくないなんて言わずに生きて欲しい。

自分を信じろ。

この言葉を信じてくれ。

 

空の海が天から妖魔を遠ざけるように、お前を守護する盾になる。

半獣の殻を突き破り、孵化して深尋の海になる。

だから、陽子。

王になれ。

 

「おいらは陽子がどんな国を作るのか見てみたい」

……そしてその傍らでいつまでも、守り続けると誓うから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

2001.9.20.


以上、陽子ちゃんはともかく、楽俊は陽子ちゃんが好きだろうという論証、でした。ν
楽俊は最初から官吏になろうとしてなくて、仕事が欲しいというのがメインだったでしょう?
王と分かってからも、その御褒美に仕事もらえたらいいなと思ってた、なんて言ってましたよね。
ところが、楽俊は大学に入りたいと申し出た。その官吏への道はどこから生み出されたものだったのか。
確かに少学にも入りたかったろうし、お父さんのようにちょっとした役人になりたかったのかもしれません。
ただ、陽子ちゃんとの関係は他の人間から見れば物凄く奇天烈な事でした。でも、楽俊はそれを
奇天烈な事にしなければいいんじゃないか、皆が納得出来るものにすればいいんじゃないかと。
そう思ったんじゃないかと氷魚は考えた(妄想した)訳であります。
でも多分、陽子ちゃんは気付いてないんでしょうねぇ。その事。(苦笑)
そんな可愛い陽子と哀れなネズミがいとおしくて楽v陽ファンをやめられない氷魚なのでした。(笑)   

 

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